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マタニティマークに関するモヤモヤについて思うこと

カテゴリ:雑談  投稿日:2015/10/20

 社会的な要請として、妊婦に優しくすることが求められている。そのことについて理解はする。善いことである、という認識についても支持しよう。わざわざ妊婦にひどいことをしてやろうなどと考えるならず者は悪であろうとも思う。曖昧模糊とした「社会」なるものがボンヤリと抱いている善意が、概ね正しい方向を向いていることについては、大した異論を持たない。そう、確かに「妊婦は守られるべき存在」である。

 だが、それにも拘らず、マタニティマーク周辺の議論(と呼べるほどのものでもないのかもしれないけれど)には、偏った物の見方が目立つように感じられ、どうにもモヤモヤする。「善の矛」が無辜の人をさえ傷つけやしないかと、ハラハラすることもある。

 確かに妊婦は守られるべき弱者である。だが、弱者は妊婦だけではないし、弱者でないものがすなわち強者であるとは限らない。「弱さ」は1か0かで分けられるようなものでなく、常に相対的なものである。あらゆる状況において妊婦が最弱者であるかどうかは、議論の余地がある。何日も徹夜続きでヘトヘトに疲れきった人と、安定期に入った妊婦のどちらがより電車の席に座るにふさわしい存在であるのかという問題は、簡単に答えを出すべきでないだろう。また、これらの問題は常に個体差によって左右され、モデルケースを立てて議論することが難しい。

 問題は妊婦に対して敵意を抱く人々である。この人たちの感情を、悪であると断ずることが僕はできない。彼らは別の弱者であることが多いように、僕には思われるのである。
 例えば妊娠を望んでいるものの不妊症である人にとって、妊婦が羨望や嫉妬の対象になることは想像に難くない。また、恋愛弱者にとって、性行為に及んだ経験のある者が羨望や嫉妬の対象になることもまた想像に難くない。彼らは持たざる者であり、与えられなかった者である。彼らにとって妊婦は持てる者であり、与えられた者なのである。無論、ここには誤謬がある。全ての妊婦が同じ境遇にあるわけではなく、極端な話をすれば望まない妊娠をした者や強引にさせられた者も含まれるので、妊婦は必ずしも幸福の象徴になるものではないのだが、そのような現実はさておき彼らもまた弱者であることに変わりはない。「富める者はますます富み、貧しき者は電車の席さえ奪われるのか」と、彼らが妊婦に対してなんらかの敵意を抱いたとしても不思議はないし、現にそういう人々がいるからこそ、モヤモヤするようなマタニティマーク周辺の議論が発生しているのである。僕はその感情を自然なものだと感じるから、軽々に悪であると断ずることができないのである。
 とはいえ、実際に悪行に及ぼうという者は厳に戒めるべきであるし、そういう感情を抱く人がいる、という現実が妊婦に恐怖を与えることもある。自然な感情であるからどうでもよい、ということにはならない。彼らが弱者でなくなるような施策が別途必要なのだと思う。

 いずれにせよ、僕たちの社会は、子を産み育てる存在を善と位置付けた。それに対し、社会は人々が善なる存在であることを求めるのではなく、人々が不善であってもなお、子を産み育てる存在に対して善がなされる構造を持つべきなのであって、議論すべきはまさにそこであろうと思う。罵り合っても何も生まない。

 いま、とても眠いので論が荒い。何を話しているのかだんだんわからなくなってきた。それもこれも、一日中忙しく働いてヘロヘロになって帰ってきたせいであって、ブラック企業というグラウンドで薄給を追いかける僕もまた、弱者なのである。社会が保護してはくれないだろうか。



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