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竜王の国 第三話「忌み子」

カテゴリ:小説 , 竜王の国  投稿日:2012/10/13

 夜が明ける。昨日の事が作り話のように、エドナはいつもよりものんびりとした朝を迎えた。自分が何をしたのか、何を見たのかも朧げになっていた。モニカが開けた扉から入る風が、部屋の中を優しく吹き抜ける。
 モニカは、エドナに「今日はお休みになったわよ」と言った。ケネスとハーマンはアカデミーの蔵書を読みに出かけ、ノラとトーマスは街を散策に行った、とも伝えた。小さな窓から入る光に誘われて、エドナも出かけたくなっていた。
 その日エドナは、とても心穏やかに過ごした。街に出て、まるでこの街にずっと住んでいる普通の少女のように、楽しく街で遊んだ。そういう気持ちでいられたのは、側にモニカがいたからであった。エドナには優しい姉が出来たように感ぜられた。
「戦うことばっかりじゃつまんないもんね」とモニカは言い、街で買った安物のネックレスを二人でつけた。同じ形の色違いで、お揃いにした。ノラのために別のアクセサリも買った。そんなちっぽけなイベントは、年頃の少女であればこの街では普通のことだったが、エドナはその日、セントのどんな少女よりも、幸せだっただろう。モニカは、他の誰も見た事がないエドナの笑顔を独り占めしていた。夜戻ってきたノラにプレゼントをして、ノラの土産話を聞く。トーマスが大きな馬車を買ったとノラが言ったのを、エドナは大げさに驚いてみせた。隣でモニカがそれを楽しそうに見ていた。
 翌朝、荷物をまとめ、六人は出立した。入ってきた南方の門ではなく、西の門からの旅立ちである。門を出たところでトーマスが皆に待つよう伝え、一人でどこかへ消えた。そして少しの後、トーマスは馬車を引く二頭の馬を操りながら戻ってきた。
「小振りな馬車ですが、六人であれば十分でしょう」
 ケネスは言った。馬車に荷物を置けば、今までよりも遠出ができる。また、商人を装うのにも、馬車は適していた。
「エドナは隣に来い。馬の扱いを教えてやる」
 エセンシルとの国境へ向けて、馬車はカラカラと車輪を鳴らせた。
 西の街道は、南の街道よりも広く、すれ違う人の数も多い。遠くに見える山々は、サガニの森よりも更に向こう側にある。その事をトーマスが教えると、エドナは遙か彼方、山の向こう側の景色を想像した。
 そこからの道中では野宿はほとんどなかったが、エドナが新しい弓に慣れるために、何度か動物を狩った。いつものように兎が多かったのだが、木陰から木陰へと移っていく兎を遠くから狙い射てるエドナの射撃精度にトーマスは少し驚いた。エドナも新しい弓で射つ矢の速度に少し驚いていた。
 時折、道のほとりで足を休めることもあった。ある日の休憩時間、エドナは自分の荷物の中から、一冊のぼろぼろの本を取りだして見つめていた。それは、かつて母から貰った、大切な教えが書かれているという本だった。しかし、残念ながら、エドナもノラも、文字が読めない。そこに使われている言葉はエドナがいま知っている言語ですらなく、父母から少し教えられただけの言葉だった。
 だが、それでもエドナはこれを見ると、母のことを思い出せた。母は一つ一つの言葉の意味を、エドナのわかる言葉に訳して教えた。母も決してこの本の全てが読めていたわけではなかったが、耳で覚えたことをそらんじていたのだろう。その内容も今では判然としないが、いつかこの本が読めるようになる日を、エドナは楽しみにしていた。
「それは『教え』だな。お前のものか」
 エドナの手元をのぞき込んで、トーマスが言った。
「はい。今となっては、母の形見です」
 口元に笑みを、眼差しに寂しさを浮かべながらエドナは答えた。トーマスはエドナの隣に座りながら、さらに問うた。
「きちんと守ってるのか」
 エドナは黙って首を振った。そして、本を開いて、数ページめくる。
「内容を知らないんです」
 それを聞いて、トーマスは本に手を伸ばした。「貸してみろ」と言うトーマスに、エドナは本を託した。
「俺が読んでやろう」
 エドナは驚きをもってトーマスを見た。トーマスが怪訝な表情で問う。
「何だその顔は」
「よ、読めるんですか」
「ああ。なんだったら、お前らにも教えてやるよ」
 俄にエドナの顔が色づく。ケネスの側にいたノラを呼んで、二人でトーマスの言葉を聞き逃さないよう、耳をそばだてた。
「文字や言葉は後から教えよう。知っているかもしれんが、この本は我々の民族の思想の根幹を為すものとされている。誇りであり、魂だ。元々の言葉が分からなくても、その心が伝わればそれでいい」
「はいっ」
 二人の揃った良い返事に、トーマスは少しだけ得意になった。えへんと一つ咳払いをして、トーマスは本の内容を訳しながら、二人に読み聞かせる。
「『母は言った。あなたがしたいことではなく、あなたがすべきことをしなさい』『母は言った。言葉に真実を求めず、真実を言葉にしなさい』『母は言った。道の終わりではなく、道の途中に目を向けなさい』。わかるか?」
 ノラはぶんぶんと首を振った。エドナには少しだけ聞いた覚えがあったが、困ったように首を傾げた。
「この本は、母の言葉を記録したという体裁で書かれている。今読んだ部分は特に『母』の基本の教えだ。一つ目は流石に分かるな。そのままの意味だ。二つ目は、世の中にある様々な言葉に騙されるな、ということだ。それは、嘘に騙されるなという意味ではない。言葉は、事物の真実を上手く表現していない。真実の表層に張り付いた膜のようなものだ。言葉の奥にある真実を見つめよ、という意味だな。三つ目は、結果ではなく、そこに至る過程にこそ、その物事の本質が隠れているという意味だ。良い結果よりも、良い過程を経ることの方が、大事だということだ」
 ははあ、とエドナは感心したように声を出した。ノラは、それでもやはりまだよく分からずにいた。
「まあ、すぐに分からんでもいい。歳をとれば自然に分かって来ることもある。俺自身、この本に出会ったのは大人になってからだった。と、そろそろ出発か。続きはまた今度な」
 言いながら、トーマスは本を閉じ、エドナに返した。
 それから何日も何日も歩き続けた。途中、休憩の時間や就寝の少し前に、エドナとノラはトーマスに教えを乞うた。いつしか二人はトーマスを「先生」と呼び、特にノラはそれまで他人行儀に接していたトーマスに対し、随分と懐いた。それをトーマスはこそばゆい感触でいた。
 そして、とうとう国境の手前の街、ヘルバンまでやってきた。空には細波のような夕焼けが垂れていた。
「この街は、セントほどではありませんが、通商が盛んです。兵の駐屯地も近いので、余所では見られないような武器が置いてあることもあります。面白い街ですよ」
 そう言いながら、門をくぐっていくケネス。しかし街に入ってから、その静けさに、エドナは少し寒気を感じた。
「ケネス様、お気をつけください。妙です」
 ハーマンの言葉が響く。エドナの感想は的外れではなかった。辺りは、静かなどというレベルではない。少し歩いても、人気が全く感じられないのだ。酒場を訪ねてみても、誰もいなかった。
「街ごと、慌てて逃げ出したような……」
 モニカが呟く。歩きながら、ケネスが全員に向けて言った。
「異常事態なのは間違いありませんね。街の様子をもう少し観察して、原因にあたればその時対応を考えますが、何も掴めない場合は道を引き返しましょう。ここで宿をとる事は適当ではありません。離れないように、固まって動きましょう。戦闘の準備も怠らぬよう」
 ハーマン、トーマスが先頭に立ち、後ろをモニカとエドナが固め、中心のノラとケネスが守られるよう陣形を組んだ。ハーマンは宿の扉を勢いよく開け、トーマスが弓を構えつつ中を覗き込む。しかし、そこにもやはり、誰もいなかった。教会、民家など、いくつ調べても、人一人、犬一匹見当たらない。ノラは小刻みに震え、ケネスの手を強く両手で握っていた。
 そうしているうち、日はとっぷりと暮れ、辺りには闇が広がった。道の途中に灯る火と、沈みかけの月が六人を導く少ない明かりである。ケネスは決断した。
「戻りましょう。野宿になろうとも、この街にいるよりは安全だと判断します」
 その言葉に、皆踵を返して、街の門への道を返っていく。
「こんなこと、前にどこかで聞いたような」
 エドナの隣で、モニカが誰にともなく言った。
「あの時は小さな村だった。五十年も前の話だ」
 ハーマンが前方で答えた。幽霊が頬を撫でるように、湿った風が六人の間を吹き抜ける。エドナは恐る恐る尋ねた。
「それって……人が、こうやっていなくなった、ってことですか?」
「うむ。気づいたのは行商人だった。小さな村だったが、その行商はよくその村を通る道を使っていたそうだ。いつからいなくなっていたのかは定かではないが、不気味なほど静かで、だが村の建物に傷一つ付いておらず、人が消えたとしか表しようのない様子だったと。しかし今回のこの街の規模は……」
 ハーマンは、それ以上を言葉にできなかった。五十年前の事件では、何らかの理由により、自主的に村民が村を捨てて移住したのだと国は判断した。行き先は不明だったが、百人規模の村で、散逸してしまえば知りようもなかった。だが、今回は、万単位の人間だ。そのような人間が一気に移動していれば、少なくとも自分たちが道中で見かけているに違いなかったし、時期によってはセントにいるうちに耳にしていただろう。ということは、人々が自主的にこの街を捨て移動したという考え自体が、既に否定されたことになる。ハーマンは先頭で、誰にも見せない困惑の表情を浮かべた。
 その時であった。ドシン、という振動を全員が足下から感じた。大地を響かせてもう一度、ドシン。筋肉を強ばらせて警戒態勢をとる。なおも、一定のリズムで地面は六人を揺らした。そうして、ケネスが突然左前方を指差して「あれです」と小さな声で言った。
 そこには、巨大な影があった。闇の中であるため、空と大地の境目、山の稜線の途中が突然盛り上がったように見える。その影が蠢き、それに合わせてまた大きく揺れた。
 六人は出口に向かおうとした。しかし、トーマスがその歩みを唐突に止め、慌てて振り返って言う。
「そんなはずはない……確かに誰もいなかったはずだ」
 その眉間には険しく皺が寄せられ、食いしばった歯から呼吸が漏れていた。他の者も同じように振り返り、耳を澄ませた。ドシンドシンという大きな音の隙間に、何者かが複数で行進するような足音が小さく聞こえる。
「この先には教会しかありませんでしたね。教会の中には誰もいませんでした。ということは」
 ケネスの言葉を待たずに、その足音の主は、その醜い姿を、薄い明かりの下に浮かべていた。
 それは、牛。否、牛の頭を持ち、牛の筋肉を持ち、しかし二足で歩き、前足ではなく手があり、鎚を握った、大型の魔物だ。その魔物が三匹、目の前に現れた。それは、六人のうち誰も見たことのない魔物だった。
「なんなんだ、こいつは……!」
 トーマスが声を絞り出した横で、ハーマンがさらに振り向いて言った。
「前方に四匹」
 ハーマンは大鎚を構えた。「ケネス様」とハーマンが背を向けたまま声をかけると、ケネスはそれに応じた。
「皆さんの陣形はそのまま維持、私は後方に加勢します。ノラさんに危害の無いよう注意してください。行きましょう」
 ハーマンはケネスの言葉が終わると同時に駆け出す。そして、常人では持上げることも困難な大鎚を豪快に振り回し、牛の頭に叩き付けた。頭骨は粉砕され、首の筋肉はねじ切れて、牛の魔物は横に吹き飛ばされた。ハーマンの後ろでトーマスが矢を放つと、奥の魔物の肩に刺さった。しかし、魔物はそれを意に介さず、ハーマンを避けながらトーマスの方へと突進してきた。
(ここで俺が避けるわけにはいかないが、見た目通り鈍感。となれば)
 トーマスは魔物の足めがけて小さいナイフを投げた。一瞬、魔物がよろめくのに合わせて飛びかかり、自慢のナイフで首を刺す。だが、それを引き抜こうとした瞬間、有り得ない感触を覚える。
(おいおい、嘘だろ、抜けねえよ)
 あまりにも太い筋肉に捉えられ、ナイフは首に突き刺さったままになってしまった。魔物を蹴って後退すると、ハーマンに向かって叫んだ。
「ナイフとられちまった! 悪いが、爺さん頑張ってくれよ!」
 兜の下で、ハーマンはふん、と小さく鼻で笑った。ナイフを首から生やした魔物が、ゆっくりと倒れる。トーマスはノラのすぐ前まで来て、そこで弓を構え、ハーマンが戦いやすいように残った魔物を誘導するように徹した。ノラは、自分が何か手伝えることは無いかとおどおどしながら考えていた。
 後方では、同じようにエドナが弓を構え、ケネスとモニカは盾を構えて少しずつ距離を詰めていた。狙いは一撃必殺。頸動脈を狙うのが最も効率よく倒せるが、その為には十分に接近する必要がある。ケネスにはそれが出来るほどの戦闘技術はない。エドナにも、この状況で期待できるほどの戦力はないとモニカは考えていた。あくまで自分一人で三匹を片付けるつもりで、モニカは一歩前に踏み出した。とはいえ、相手の戦闘力は未知数だ。
(あの体格から想像するに、攻撃を受け止めてから反撃するパターンは成り立たないかな。盾ごと飛ばされて終わり。避けながら……三匹同時の攻撃がきたら避けきれないか)
 考える時間はもうほとんど残されていなかった。だが、左の一匹が大きく上段に振りかぶったのを見て、反射的にモニカは飛びかかった。そのまま相手が振り下ろすのを誘い、体の軸を回転させてそれを避けながら、動脈を切った。モニカの後ろで、火花が散った。
「間抜けで助かったわ。ありがとう」
 残りの二匹がモニカの方に気を取られた隙に、エドナは矢を一本射った。矢は、吸い込まれるように、一匹のこめかみに突き刺さる。魔物は断末魔をあげながらゆっくりと倒れた。
「ナイス、エドナ!」
 モニカはそのまま駆け出した。モニカの頭の高さに合わせるように魔物は鎚を水平に振り回した。モニカは頭から飛び込み、その鎚の下を潜って魔物の爪先を切った。浅めに入ったが、魔物は鎚に引っ張られながら大きく体勢を崩し、倒れた。ケネスが、起き上がる前の魔物の首の動脈を切る。
「なるほど、硬い感触ですね」
 モニカに手を差し伸べながら、ケネスは言った。助け起こされて、モニカは埃を手で払った。
 前方を見ると、ハーマンが鬼神のごとき激しさで大鎚を振り回し、残った魔物の肉体を粉砕していた。
「いつもながら、人間とは思えん」
 トーマスは苦笑した。初めてハーマンの戦う姿を目の当たりにしたエドナは、ハーマンを、破壊そのもののように感じていた。彼に打ち砕けないものはないのではないのかと思った。
 ドシン、と大地を揺さぶる音が、六人の近くで聞こえた。それは、絶望的な音でさえあった。牛の魔物との戦闘に気を取られて、それが接近していることに、気を配れなかった。「いつのまに」とトーマスは抜けた声をあげる。
 そこには、巨大な獣がいた。ゴブリンをそのまま大きくしたような顔つきで、足は象のように太く、腕は丸太のように締まり、腹はベッドのように大きかった。全身の高さは、四階建ての高級宿よりもある。全身に装甲を纏ったそれは、巨大な銅像のようにも見えた。その巨大さ、禍々しさに呆然としている間に巨獣はハーマンの目の前まで来て、手に持っていた棍棒を乱暴に振り下ろした。ハーマンはそれを躱したが、その棍棒がまた六人の足下をぐらつかせた。ハーマンは走って接近し、そのまま飛び上がって大鎚を振りかぶると、巨獣の膝めがけて思い切り振り下ろした。硬い音がして、ほんの少しだけ巨獣はよろめいたが、損傷は認められない。トーマスは気を取り直した。
「あれが効かないんじゃ、装甲の上からは無理だな。俺と爺さんでやる。皆は下がってろ」
 魔物に刺さったままのナイフに手を伸ばし、足で魔物の体を踏みつけながらトーマスは思い切り引き抜いて、足に付けたホルダーにしまった。兜の向こう側から二つの眼を光らせた巨獣の頭部を見つめ、叫んだ。
「あのデカい兜は留め具が無い! あれを剥がして頭をかち割れば恐らく倒せる!」
 頭部を攻撃するための方法は二つしかない。自分があの高さまで上るか、頭の方が自分の高さまで下りてくるかだ。トーマスの頭の中には、選択肢は一つしかなかった。懐から油の入った瓶を取り出しつつ、巨獣の足下まで駆けていく。巨獣は棍棒を振り回すが、その動きはトーマスには緩慢に思えた。難なく接近し、油を巨獣の足に向けて振りまいた。装甲の隙間から忍び込むように油は浸入し、そのままトーマスはまた距離をとった。
 鏃に油を浸し、火打の石と金具を弾いて火種に火をつける。火種を鏃に寄せると、矢はすぐにでも燃え尽きそうなほどの勢いで燃え盛った。自分の手を少し焼きながら、トーマスは巨獣の足下に向けて炎の矢を放つ。しかし矢は、巨獣が意図せず振った、そこだけ装甲が薄かった手に刺さった。巨獣は地を震わせる様な怒りの声を上げ、目標をトーマスにのみ定めた。そして、その重い体を振るわせながら突進する。トーマスは次の火の用意をする間もなく、回避行動を余儀なくされた。
 ハーマンはトーマスがチャンスを作るのをじっと待っていた。避けながら、それでも必死に火を作ろうとするトーマスだったが、意識を散らされ、なかなか火は起こせない。やっとの思いで起こした火を鏃に移そうとしたとき、とうとう避けきれずに巨獣の振り回す棍棒を全身に食らってしまった。ノラが「先生!」と叫ぶ。
 殴られる瞬間、飛ばされる方向に自身で飛び跳ねて若干のダメージを吸収させたが、それでも十メートルは飛ばされ、強く地面に叩き付けられた。堪えきれず、ノラがトーマスに駆け寄る。追撃を抑えるため、ハーマンは巨獣を後ろから思い切り叩いたが、巨獣はその事に気づいてもいないかのように、なおもトーマスのもとへ歩み寄って、ノラもろとも叩き潰すべく棍棒を振り上げた。
(何やってんだ、馬鹿野郎。逃げろ)
 ノラにそう言おうとしたが、トーマスは声を出せなかった。エドナが駆け出した時には、棍棒は振り下ろされ始めていた。もう駄目だ、とその場の誰もが思った瞬間、トーマスは、ノラの角が光ったように感じた。
 一瞬の後、棍棒はトーマスとノラを逸れ、横の石畳を打ち砕く。巨獣の足には炎が渦巻いていた。駆けていたエドナは、棍棒の衝撃でバランスを崩して転倒する。足下の炎に巨獣は慌てふためき、その場でグルングルンと回り始めた。その間隙をついてケネスとモニカが駆け寄り、トーマスの両脇を支えて、巨獣から遠ざけた。巨獣は膝をついた。
 巨獣は、それでも倒れずにいた。ハーマンは攻めあぐね、トーマスを支えるケネスとモニカは、この巨獣とはそもそも戦えない。しかし今が千載一遇のチャンスであるのは間違いなかった。これを逃せば、全滅するかもしれない。だから、エドナは立ち上がって、弓を構えた。全身の神経を研澄まし、一点だけを狙った。そこは、兜の隙間から覗かせている、眼球であった。
 距離、角度、照明、緊張、疲労、その全てがエドナに負荷を与えた。しかし、エドナはなぜか、今なら出来ると感じた。やらねばならないと思った。それが出来るのは自分しかおらず、自分になら出来るという不思議な確信があった。矢が放たれた後、エドナには時がゆっくり流れるように見えた。一本の光が自分の手元から巨獣の眼にまで伸び、それを辿るように矢が滑っていった。矢は、巨獣の眼に突き刺さった。
 この世のものとは思えない苦悶の声が巨獣の喉から辺りに響いた。巨獣は耐えきれず、うずくまる。それを見逃さず、ハーマンが兜の端を顎から頭へ向けて叩き、兜は剥がされた。兜が矢に触れて、巨獣は更に大声を上げた。ハーマンはそのままの勢いで、巨獣の頭、顔面を力の限りに何度も打ち付ける。血飛沫と断末魔が周囲を埋め尽くした頃、ハーマンはその手を休めた。やがて声は聞こえなくなり、巨獣がゆっくりとうつぶせに倒れた。
「危ないっ!」
 声が聞こえて、エドナはモニカに突き飛ばされた。よろめきながら振り向くと、モニカが振り回される鎚を盾で防ごうとしていた。盾がひしゃげ、モニカは壁まで飛ばされる。
「モニカさん!」
 こめかみに矢の刺さった牛の頭の魔物が、息を荒げて立っていた。仕留めたと思ったのが、まだ生きていたのだ。一撃振り回すので精一杯だったらしく、揺れながら立っている。ケネスは剣を真っすぐに向け、魔物の胸に突き刺した。魔物はあっさりと絶命し、そのまま倒れた。やはり刺さったままになった剣をケネスが抜けないでいると、ハーマンが柄を持って、代わりにぐいと引き抜いた。
 道の壁まで飛ばされたモニカは、エドナに介抱されていた。
「ごっ、ごめんなさい、私が迂闊なせいで」
 エドナは涙を薄らと滲ませながら、モニカに謝った。モニカは、眼を閉じ、口元を緩めて言った。
「エドナが無事なら、いいわよ。あたしも油断してたしね」
 モニカは、自分で自分の負傷具合を探って、背中側で一カ所、肋骨にヒビが入った程度だと見積もっていた。幸いにして瀕死だった魔物の一撃は本来よりも軽かったため、直撃とはいえ軽度の負傷で済んだ。戦闘も終わって、モニカの心はエドナと対照的に、落ち着いているのだった。
「それにしてもエドナ、凄いじゃん。あんな精度で普通狙えないよ」
 エドナの腕の中で、モニカは大いに褒めてみせた。今回の勝利は、エドナの貢献抜きには有り得なかっただろうことは、その場の誰もが認めていた。
「まったくだ。お前に、あれが可能なのが、分かっていたら、戦い方も、違っていた、かもな」
 心配そうに見つめるノラの側で、息を切らしながら、トーマスはやっと出るようになった声で語りかけた。次からは少し頼りにしてみようとも、トーマスは考えていた。
「トーマス、歩けますか?」
 ケネスが隣でしゃがみ込んで尋ねた。
「元気に、とはいきませんが、落ち着けば、なんとか」
「モニカは?」
 ケネスは首を向けて続けて問う。
「歩くのは、大丈夫です」
「分かりました」
 ケネスは立って、辺りを見回した。そして、皆に向かって言った。
「まずは街を出るのが最優先です。次の魔物が来る前に出ましょう。トーマスは私の肩を使ってください。ハーマンが先頭、エドナさんが殿(しんがり)、それぞれ周囲に注意を払って。行きましょう」
 再びしゃがみ込み、ケネスはトーマスの腕を自分の肩にかけ、支えて立ち上がった。モニカは、立ち上がる時にこそエドナの助けを借りはしたが、そこから先は自分の足だけで歩けた。
「街を出たら、前に立ち寄った村に戻ります。夜間ですが、とにかく進みましょう」
 それから、と言いかけたとき、ハーマンが立ち止まった。それに合わせて皆が止まると、前方から足音が聞こえた。魔物と思って身構えたが、奇妙なことに、拍手の音が足音に続いた。そして、闇の中から一人の男が姿を見せた。
「騒々しいと思って来てみれば……随分、腕が立つじゃないか。普通の人間に倒せるように作ったはずはないんだが」
 全身を黒いローブで包んだその男は、無造作に近づいて来る。ハーマンが大鎚を構えると、それを制止するように手を突き出した。
「おっと、私をあいつらと一緒だと思うなよ。そんなもの私にはあたらん」
 その言葉に構わず、ハーマンは大鎚をローブの男目掛けて振り回した。だが、大鎚は空を切り、ハーマンは少しよろけた。体勢を整えて向き直すと、そこに男はいなかった。
「少しは話を聞け。耳はついてるんだろ?」
 声は後ろから聞こえた。慌てて振り向くと、男はエドナのすぐ側にいた。後ずさると、モニカの爪先にエドナの踵がぶつかった。
「ああ……なるほど。ただの旅人じゃないわけだな。そこにいるのは『忌み子』の王子だろう」
 ハーマンにトーマスを預け、モニカとエドナの傍から、ケネスは前に出た。
「私の事をご存知なのですね。ですが、私はあなたを存じません。どこかで面識がありましたか」
「王子の噂ぐらい、私の耳にも届くさ。呪われた子だということもな」
 エドナは、男の言葉に戸惑った。ケネスが、呪われた子、忌み子である、という意味が、エドナには飲み込めなかった。だが、ケネスはその事について、なんでもないように返した。
「そうですか。それで、あなたは何者でしょう。この街の状況は、あなたが引き起こしたことですか」
「私はラバンだ。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう」
 ケネスは訝しんだ。ラバンという名前は確かに有名な人物のものだった。だが、それは遥か昔の、半ば伝説と化した歴史の中の人物だった。その人物は宰相として、当時の王の側で働いていたという。その人物が伝説的なのは、付随して語られる超常的なエピソードによるものだ。非現実的な記述が多いため、ラバンという人物の実像をよく理解している者はいない。それどころか、実在していたかどうかも疑われていた。
「かつてラバンという人物がいたらしいことは知っています。しかし今の世でその名を聞くのは初めてです」
「かつて、じゃないさ。私は王子殿の知っているラバンそのものだ」
「私が言ってるのは、三百年も前の人物ですよ」
「単純に、私が齢三百を超えているだけの話さ。まあ、そんなことはどうでもいい」
 値踏みするように、ラバンはぐるりと六人の周りをゆっくり回った。くくっ、と笑ったその視線の先には、ノラがいた。
「忌み子に鬼子とは、面白い取り合わせだな。王子殿、確か貴方は竜の討伐の旅の途中のはず。本来、こんな街に用はない。なのに、実際にはここにいる。それに従う鬼の娘。少し読めたぞ」
 ラバンは、またハーマンの前まで歩いて、背中を向けたまま、肩越しに言った。
「私はまた少しの間引っ込んでいるとしよう。王子殿は、面白いことをしようとしているようだ。邪魔はしないよ。この街の者どもは頂いておくがな」
 ラバンは言葉を残して、また闇の中へ溶けていった。
 残された六人は、戸惑いつつもあらためて街の門へと向かった。辺りには気配がなく、何者にも遭遇せずに街を出ることができた。そして、狭い馬車にトーマスを寝かせ、付近を警戒しながら一つ前の村に戻る。その最中、エドナの頭からは「忌み子」という単語が離れなかった。ただ、誰かに問いたくても、エドナにはそれが許されるとは到底思えなかった。
 トーマスの側には、その身を案じるノラがいた。馬車に揺られながら、トーマスは先ほどのノラの様子を思い返していた。あの激しい戦闘の最中、その瞬間に気がついたのは自分だけかもしれないと思った。角が怪しく光り、その直後に巨獣の足下に火がついたのだ。あれが一体なんだったのか、その答えを出すには検討材料が足りなかったが、トーマスはノラのあくびした姿がいつもと変わらないことに安心した。
 なんとか村にたどり着いたのは、既に明け方近かった。まだ寝ている宿の者を叩き起こし、事情を伝えて滞在させてもらえるよう頼み込んだ。
 トーマスの怪我は、やはりモニカが診ることになった。モニカ自身も負傷していることに、トーマスは嫌みっぽく言った。
「他人を守って医者が怪我をしたんじゃ世話無いな」
 それに対して、モニカは目も合わせずに応えた。
「敵を討ちとれない射手よりはマシよ。それに私のは大した怪我じゃないわ」
「ぅいっ! つっ……」
 触診に少し力が入って、トーマスは思わず声をあげてしまった。
「この程度で痛がっちゃって、なっさけないなあ。内臓は大丈夫みたいね。腕はあたしが良いっていうまで絶対に動かさないこと」
 固定した腕を巾で吊りながらモニカは言った。
「じゃ、おやすみなさい。おとなしくしてるのよ。肋骨も何本かいっちゃってるから、ちゃんとつながるまでは、動き回らないでね」
 トーマスを置いて、モニカは部屋を出た。部屋の前で、四人がトーマスの容態を案じて、待っていた。
「具合はいかがですか?」
「命にかかわる事態にはなっていません。ただ、防御したときに直に腕に衝撃がいったので、腕の骨は完全に折れてます。治らない訳じゃないですけど、暫く時間はかかりますね。それと、肋骨も何本か……」
 モニカは声を落とした。ケネスは「待つしかありませんね」と言って、ハーマンと共に隣の寝室へと向かった。ノラは、トーマスの部屋の扉に手をかけていた。
「ノラちゃん、心配なのはわかるけど、治療には時間がかかるものよ。死にはしないから大丈夫よ」
 モニカの言葉にも、ノラは首を振った。
「私、先生の側についていていいですか」
 声は小さかったが、力強く、意志が言葉に乗っていた。その決意の眼差しに、モニカは折れた。
「しょうがないわね、トムが良いって言うなら止めないわ。本人に訊いてみなさい」
 ぺこりとお辞儀をして、ノラは中に入っていく。残された二人は顔を見合わせて、苦笑した。
「あの子にとっては、お父さんのように思えるのかもしれません。小さい頃に父を亡くしてますから、本当の父のことは顔も覚えていないでしょうし」
「エドナは平気なの?」
「もう十六ですよ。そんな歳じゃありません」
「そう。でも、甘えたかったら甘えてもいいからね」
 エドナはくすぐったそうに笑う。話していると、武器を手に持って、ケネスとハーマンが戻ってきた。
「もうすぐ朝になってしまいますが、お二人も少しは休んでください。特にモニカ、あなたも怪我をしているのですから、なるべく休息を取るように。見張りは私たちでします」
 無論、狙われているのはケネスで、本来はケネスが安全である為の見張りなのだが、ハーマンとともに自ら起きているのであれば異論はなかった。申し出をありがたく賜って、モニカとエドナは寝室に向かった。薄着になってベッドに寝転んだが、疲れ過ぎたのか興奮が冷めないのか、エドナは寝付かれなかった。ふと、ローブの男の言葉を思い出していた。
 眠れないのは、モニカも同じだった。疼痛のせいもあったが、何となく眠るのが勿体ない気分だった。モニカは首を向けて、エドナがまだ起きていることを確認すると、小さな声で話しかけた。
「今日は、散々だったね」
 その言葉で、エドナの頭にはあの巨大な魔物が浮かんだ。見たことも聞いたこともない、想像を超えた、恐怖。蠢く闇が、その奥に何を内包しているのか、エドナは何も知らなかった。
「あの大きな怪物は、なんだったんでしょう」
「私も初めてみたわ、あんなの。あんなでかいの、どこに隠れてたのかしら」
「それにあのラバンとかいう人。ケネス様のこと……」
 エドナはそこで言葉を切った。なにを言わんとしているかは、モニカにはすぐにわかった。ケネスが忌み子である、という言葉の意味を知りたがっているのだ。ケネスの出生の秘密は、宮中の一部では噂話としてよく語られることであったが、それをわざわざ声高に叫ぶ者もなく、あえて民に知らされるはずもなかった。ケネスの現在の政治的立場は、その噂を知らないものにとっては、むしろ不思議な状態に置かれていて、そのことがより噂の信憑性を高めることにもなっていた。そして、ケネスとともに旅に出た三人は、全員その噂が真実であることも知っていた。
「ケネス様のことを『忌み子』って呼んでたこと、気になってる?」
「ええ、あれは、どういう意味だったんでしょう」
 モニカは、ううん、と思案して、それから言った。
「いつか、ケネス様が良いって言えば教えてあげる。ちょっとね、デリケートな話なのよ」
 残念そうな表情を向けられて、モニカは言葉を付け足した。
「大丈夫よ、ケネス様はケネス様だもの。エドナの知ってる通りの方よ」
「うん、そうですよね」
 そう返事をして、自分でも「どうでもいいことで、気にする様な問題じゃない」と頭では考えていたが、なぜか心の中にしこりが残るのをエドナは感じていた。
 翌朝、トーマスとノラを起こすより前に四人は食事をとっていた。普段と変わらぬ時間帯だったが、今トーマスを起こすことは適切ではないと判断したためだった。食事は後で運び、部屋でとらせる。ノラもその時に一緒に食べればいいだろうと、考えていた。
「暫くは、ここに留まるしかありませんね」
 フォークを口に運び、皿に目をやりながら、ぽつりとケネスが言った。敢えて言うまでもなく皆が感じていたことだったが、あらためてそれを口にすると、ぐったりとした疲労感にも似た思いが湧き上がってくるようだった。
 その原因は、昨日の謎の魔物達との遭遇にあった。それだけで旅は前途多難だと突きつけられているようなものなのに、旅に出発することすら、今は許されていなかったからだ。傷が癒えたとき、あらためてレムリに向かうことが適当なのかも、まだ判断できなかった。先行き不透明なまま、何の進捗もなく時間を待つのは、精神を磨り減らすことだった。
「とにかく、皆さんも体調は万全に保っていてください。まだ、先は長いですからね」
 ケネスの顔にも、珍しく疲れが浮かんでいた。その表情が余計に、今が窮地なのだと皆に感じさせた。
 そのとき、廊下からドタドタという重たい足音が聞こえた。続いて声が響く。
「モニカ、モニカどこだ!」
 その声はトーマスのものだった。モニカとエドナの部屋に一度立ち寄ったのだろうか、モニカを探し求める声が、食堂の前を通り過ぎようとしている。モニカは慌てて廊下に飛び出した。
「ちょっと、動き回るなって言ったじゃ……」
 その光景を見たモニカは絶句した。そして、数瞬の後、モニカは呆けながら、声を絞り出した。
「あ、あんた、馬鹿じゃないの」
 そんなことが可能なはずがなかった。腕の骨は完全に折れていたのだ。たった一晩で治るわけがない。なのに、トーマスはノラを両腕に抱えて、そこに凛として立っていた。そして、乞うようにモニカに言う。
「ノラが尋常じゃない熱を出してる。診てくれ」
 その言葉で我に返ったモニカがノラの顔を見ると、額にある濃紫の角が昨日に比べて急激に伸びているのが目についた。そのことに驚きながら紅潮した額に手をあてる。火傷しそうな熱さが手に伝わり、モニカは真剣な眼差しで言った。
「こんな状態で、何で連れて来たのよ。すぐに部屋に戻ってベッドに寝かせなさい。エドナ! 悪いけど、桶に水と、手ぬぐいを部屋まで持って来て!」
 それぞれに指示を出し、自身は部屋から道具箱を持ち出す。急いでノラのもとに駆けつけ、容態を診た。ノラの呼吸は荒い。
「高熱とそれに伴う軽度の意識障害。他に症状はないけど、この高熱は危険ね。エドナ、このまま暫く、首の動脈辺りを冷やしてあげてて」
 頷くエドナを横目に、モニカは厨房に向かった。宿の者に事情を話し、厨房を借りて、解熱効果のある樹液を煎じながら、それにしてもと考えていた。トーマスの腕は一体どうなっているのか。昨日診たときは完全に折れていて、動かそうと思っても動かせないはずだった。先ほどのように力強くノラを抱えるなど、考えられない。だが、それは目の前にあった事実なのだ。
 訳の分からない事態に困惑しながらも、モニカはとにかく、今はノラの治療が優先だと、気をとりなおすのだった。



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