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竜王の国 第四話「言い訳」

カテゴリ:小説 , 竜王の国  投稿日:2012/10/13

 荒かった呼吸が徐々にそのリズムを整えていく。次第に呼吸は寝息となり、顔つきは穏やかなものとなった。ノラを囲む面々は、ほっと胸を撫で下ろす。ノラの汗を拭くエドナにモニカは言った。
「とりあえず、落ち着いたみたいね。暫くそのまま、冷やしたり汗を拭いたりしていてあげてね」
 モニカは席を立ち、自らが部屋を出るのに合わせて、他の者もついてくるように促した。エドナとノラだけを部屋に残して扉を閉めて、トーマスに尋ねた。
「で、説明してもらうわよ。腕はどうなってんの?」
 その質問が来ることは予め分かっていたトーマスだったが、しかし困惑顔で答えた。
「俺にもわからん。目が覚めたらこういう状態だった。恐らく、肋骨も同じだろう」
 やれやれ、という顔でモニカは首を傾げながらトーマスを見る。トーマスは、無い答えを探りながら、続けた。
「ただ、もしかしたら……というか、これは俺の勝手な想像だが、恐らくノラのあの熱と関係があるんじゃないかと考えている」
「といいますと?」
 ケネスが会話に口を挟む。トーマスはケネスの方を向いて、さらに言った。
「昨日、あのでかいのと戦った時に、俺は油を撒いた後でやられてしまいました。その後、俺自身で火をつけることはできなかった」
「しかし、実際には燃えていましたね。あれは、トーマス、あなたがやったのではなかったと」
 他の者には、少し離れていたこともあり、状況を細かく把握できる状態ではなかった。火がついたとき、トーマスが土壇場でなんとか火を起こして油に着火させたのだと想像するしかなかったのだ。
「はい。ただ、そのとき、ノラが俺の近くにいました。俺の目には、あの角が一瞬、光ったように見えたんです」
 トーマスのその証言に、一同は沈黙した。少しの間を置いて、沈黙を破ったのはモニカだった。
「つまり、ノラちゃんから『何らかの力』が出て火をつけたってことを言いたいわけね。それで、同じように、ノラちゃんから『何らかの力』が出たお陰で、あんたの怪我が治り、その影響で、ノラちゃんは熱を出したと」
「まあ……そういうことだが」
「よしてよ」
 ため息をつきながら、モニカはやや大袈裟に呆れてみせる。
「有り得ない。人間の体は、理屈があって成り立ってるの。まだ分からない部分はあるけど、調べてみれば納得できる仕組みで動いてる。そんな魔法みたいなこと、あってたまるもんですか」
「それはわかりませんよ」
 ケネスの言葉に、皆が注目する。ケネスは続けた。
「知っての通り、ラバンは『魔術師』として有名です。昨日出会った人物が本物のラバンかどうかは分かりません。しかし、そうだと仮定すると、街の人々が消え去ったという異常なことに、説明がつくと思いませんか。いえ、というより、魔法を使ったというようにしか、説明がつかないと思いませんか。だとすれば、魔法というものは、本当にこの世に存在するのかもしれません」
 その発言に驚きながらも、モニカは反駁した。
「で、でも、この世に起こる全てのことは、科学的な説明がいずれつけられるようになるはずです。法則を無視する様なことが、そんな簡単に」
「それはモニカの言う通りです。ですから、魔法というのは、我々の知らない、『魔の法則』を利用しているものなのではないかという話です。トーマスの怪我が治ったことは否定しがたい事実でしょう。加えて、同時にノラさんが高熱を出したことも事実。根拠に乏しい事は否めませんが、この二つに関連性があるという仮定は、現状では科学的な思考に反しないと思いますよ」
「……すみません」
 モニカは、それ以上の反論が出来なかった。納得したわけではない。だが、今ある情報で全てを判断することは不可能であるし、自分の頭も少し固かったかとも思った。
「謝ることではありません。魔法などという怪しげなものを簡単に認めるわけにはいかないというのは、当然の考え方です。特にあなたのように教養の高い人物であれば尚更でしょう。しかし今は、目の前の事実を否定せず、分からないものは分からないままにしておいたほうが良いかもしれませんね」
 そうして、その場は終わった。旅の再開はノラの回復次第ということになり、それから三日でノラはほぼ全快となった。意識のはっきりしたノラに、トーマスに何かしたかを問うたが、なにも分からないということだった。
 ノラの角は天を突き刺すように、しっかりと伸びていた。それは既に、ゴブリンのものと比べて遜色の無い大きさで、ノラは時々それを触っては不思議そうな顔つきをするのだった。
 そうして、六人は村を出た。「後戻りするつもりはありません」と言いながら、ケネスは迷わず国境への道をまた進み、他の者はそれについていった。
 ヘルバンを横目に見ながら国境に辿り着く。しかし、そこに番兵はいなかった。国境は誰でも素通りできる状態で、ここもラバンに襲われたのだと考えられた。
「やはり、変装の必要はありませんでしたね。あと何日かすれば、首都も異常に気づくでしょうから、この辺りは調査の兵でいっぱいになるところでした。そうなれば、迂闊にここを通れません。トーマスの回復が早かったのは不幸中の幸いです」
 誰もいない国境の門を悠々と潜り、ついにエセンシル領へと足を踏み入れた。そこからは、変装こそせずにいたが、ケネスは、エセンシル領内では自分のことを「ポール」と呼ぶように皆に伝え、名前に「様」をつける事は控える様に指示した。
 道のりは順調だった。国境を越えてからは、人の消えた村や町を見かけることはなく、ラバンの襲撃がごく一部の地域に限られていたことも分かった。エドナは、同じ言葉を話し、同じ様な人種の集まりであるのに、ある一か所を境に国が分かれていることが不思議に思えた。町や村の人たちは、どこへ行っても、取り立てて変化があるわけではなく、仲良くなれば自分でも受け入れてもらえそうだとも感じていた。そんな隣国の雰囲気に慣れたころに、レムリにたどり着いた。国境を越えて三週間ほど経ち、空は秋から冬へと、雲の装いを変えていた。
 レムリは、外から見る分には、普通の少し寂しい町のように思えた。背が高く、厳つい男が二人、町の入り口で番をしている。ケネスは声をかけた。
「こんにちは。中に入っても宜しいでしょうか」
 男たちは、稀な来訪者達を疑いの眼で見下ろした。そして、左の男が言った。
「お前たちの素性と目的を言え」
 重々しい声だった。エドナは、そこに拒絶の意味が込められているように感じた。
「私は、東のティアク王国の王子、ケネスと申します。少々困っている事がありまして、こちらに伺った次第です」
 後ろで、エドナが隣のモニカに、ささやき声で尋ねる。
「『ポールさん』じゃなくていいんですか」
「レムリはエセンシル領じゃないから、いいのよ」
 モニカもひそひそと、小さな声で答えた。今度は右の男が尋ねた。
「困り事とは何だ」
「はい。見ていただいた方が早いでしょうか。ノラさん、すみませんが、前へ」
 後方にいたノラが、はっと驚いてから、徐に前に出る。もう、帽子でもヘルムでも隠しきれない角を見せながら、ノラは恥ずかしそうに俯いた。
「この少女の角は、生まれつきのものではありません。レムリの方ならば、この角を取り除く方法、あるいはそれを知る人物に心当たりがあるのではないかと、はるばる参ったのです」
 男達は、顔を見合わせた。左の男がしゃがみ、ノラの顔と角を覗き込んでまじまじと観察する。少しの後、立ちあがって言った。
「話だけは聞いてやろう。おい」
 そう言って、右の男に顎で合図をする。右の男は、付いてこいと言うように、左手で乱暴に招く仕草をした。六人は、その男に案内される形で町の中に入っていった。
 町の中は、静かだった。町行く人々も、楽しそうにおしゃべりする姿は見られない。野良仕事をする人は警戒するように腰に手をあてて、集団が近くを通り過ぎるのを睨んでいたし、ノラよりも幼い少女が、母親らしき人物の足下に縋り付きながら、見慣れない客人に怯えていた。ティアクやエセンシルのどの村や町よりも、排他的な空気に満ちていた。
 そして、一軒の建物にたどり着いた。そこは、赤い木を組み立てて作った、荘厳でありながらも幾分小さな家であった。
 中に通されると、一人の老人がそこで待っていた。ハーマンから見ても随分上に思えるほど、衰えた老人である。案内をしてくれた男が一言老人に耳打ちをして、六人を残して出て行った。ケネスが挨拶をすると、老人は「座りなさい」と低い声で言った。老人を含めた全員が、床に座った。
「王子様、だったな。遠いところからご苦労さんなことだ。しかし、こんな辺鄙なところに来て、どうしようってんだ」
 話を振られる前に、先んじてノラがケネスの隣にちょこんと座った。ケネスが説明をするまでもなく、老人はノラの顔と角をじっと見つめ、言った。
「こんな半端者は久しぶりに見たな。ま、おおかた、この子を元の人間に戻して欲しいってな相談だろ」
「ご賢察痛み入ります。可能でしょうか」
「その前によ、王子さん。あんた、この町のこと、どこで聞いた。どこまで知ってる」
 じろりと、上目遣いにケネスを睨む老人。ケネスは臆する事なく答えた。
「ある歴史学者に伺いました。こちらならば、『魔』の道に明るい方がいらっしゃると」
 その答えに、深いため息をつきながらケネスの目をじっと見た。そして、はっ、と笑う様な息をひとつ吐き出して、老人は言った。
「目を見れば大体どんな人間か分かるもんだ。王子さん、あんたの目は、嘘つきの目に似てるよ。本当の事を言ってるのは分かる。だが本物の嘘つきってのは、本当の事を言って、相手を騙すんだぜ」
「仰っている事の意味が、分かりかねます」
「お前さん、森に行きてえんだろ。その嬢ちゃんは『言い訳』に過ぎねえ。おめぇの目は、森を向いてる」
 老人の言葉に、エドナの心はざわついた。ノラは、老人の態度に不安を覚えて、ケネスの顔を見た。ケネスは、次の言葉を探りながら、ゆっくりと応えた。
「……ええ、確かに、私は森に向かわねばなりません。そしてあなたの態度からして、それが存在することは間違いなさそうです。でも、勘違いしないでください。この子を救う為にすることです」
 ケネスはノラを向いて、口元を緩めた。
 どうだかな、と老人は弱々しい腰つきでゆっくりと立ち上がる。そして、六人を見下ろしながら、言い放った。
「それに、生憎だが、その角はもう一生もんだ。今さらどうこう出来るものじゃねえ。『森の奥』に行ったからって、なんにもならねえよ。諦めて帰んな」
 出て行けと言わんばかりの空気を漂わせる老人に、エドナが慌てて立ち上がり、縋るように「ちょっと待ってください!」と叫んだ。前に出て、ノラの横で膝を立て、ノラの両肩を両手で掴んで、懇願した。
「ノラだけは、この子だけは普通の人間として、普通に生きて欲しいんです。何か、何かヒントだけでも」
 ああ、とくたびれたように唸り、老人はエドナの前にしゃがみ込んで訊く。
「嬢ちゃん、名前は」
「エドナです」
「この子の肉親かい」
「姉です。他に家族はいません」
「そりゃあ気の毒になぁ。だけどな、哀れなことだがこの子はもう元には戻れねえ」
 老人はエドナの目を見て、言い聞かせるように少しだけ言葉を穏やかにした。エドナは唇を噛んだ。
「ご老人、あなたが何を知っているのか、我々は知らない。そこまで断言できる理由を教えてはもらえませんか。森の奥に、何があるというんですか」
 口を挟んだのはトーマスだった。老人はじろりとトーマスを睨んでから、元々いた場所に座り直した。
「森については俺の口から何も言うことはねえ……が、何も言わなきゃ帰らんのだろうな」
 老人は、はぁとため息を吐き出した。
「お前さん達は『魔物』が一体どういう生き物なのか、知ってるか」
 六人はその言葉に対して、沈黙した。それは無知の表明だった。老人はそれを返事とみなして、言葉を続けた。
「わざわざ、普通の動物と魔物は区別されている。焼いて食っちまえばどちらもおんなじ動物の肉なんだがよ。普通の人間が『魔物』と呼ぶときには、他の動物とは異なる、違和を感じ取っている。だから、明確な基準がなくっても、こいつは魔物だ、と思うんだが、魔物と呼ばれる動物には共通点がある。何だと思う」
 エドナはノラを見た。そして、もしかしてと思った。ノラがそうなら、他の全ての魔物は、そうなのかもしれないと思った。
「もしかして……元々、全部、人間だったなんてことは」
 戸惑いながら、答えるとも問いかけるともつかない気弱な声をエドナはあげた。他の者からは、なんの回答もなかった。老人は言った。
「ちょっと違ぇな。魔物ってのはな、二つ以上の生き物が組み合わさった動物のことをいうんだ」
 エドナの脳裏に、あの牛の魔物の姿が浮かんだ。あの魔物は牛と人間が組み合わさっていたのではないかと考えた。
 そして、ノラの角を見た。これも、何かの動物の角だというのか。こんな歪な角を持った動物がいただろうかと、記憶を探ってみたが、わからなかった。モニカが老人に言った。
「それは、異種間での生殖ということですか? そんなこと、そんな簡単に、大量に起こるとは思えません」
「そうじゃねえ。その嬢ちゃんみたいに、今生きている動物に、他の動物が混ざるんだ。いや、混ぜられると言う方が正しいかな。まあ、自然じゃ起こらん事だ」
 部屋の中を静寂が包んだ。ノラは俯き、エドナは震え、トーマスは眉を顰め、モニカは戦慄し、ハーマンは目を閉じ髭を弄っていた。ケネスだけが、変わらずの表情で老人を見ていた。老人はケネスに言った。
「王子様は、ご存知だったかな」
「……いえ、想像の範疇ではありましたが、知りませんでした。しかし、誰かがそのように命の加工をしているとなると、それはもはや神の領域ですね。魔物は図鑑に載っていません。教会が魔物の研究を禁じているからですが、その理由も、それが神の領域を侵した方法によって作られていることを教会が知っていた、あるいは、かつて知っていた者が規則を作ったからだと考えれば納得がいきます」
 ケネスの言葉を嘲るように、老人は鼻で笑った。
「で、嬢ちゃんの想像の通り、人間から魔物になった奴も、沢山いる。数えきれないくらいな。ゴブリンもその一つだ。ありゃ、人間の子供からしか生まれねえ。その子のようにな。だが、魔物になった奴が戻ったなんて話は聞いた事がねえ」
 腕を組み目を伏せた老人に、トーマスが問いかける。
「話は分かりました。ご老人、それでは、あなたはなぜ、そのように魔物に詳しいのか、訊いても宜しいでしょうか」
「言いたくねぇ」
 切り捨てるような返答をされ、トーマスは二の句が継げなくなった。
「さ、もう良いだろ。そろそろお引き取りくだされや。俺も鬼じゃねぇから、こんな時間に放り出したりはしねぇ。宿ぐらいは用意してやる。日が昇ったら帰んな」
 
「ケネス様、『森に行かなければならない』とは、どういう意味でしょうか」
 指定された宿に向かう途中、ケネスの目を見ずにハーマンが低い声で言った。その疑問は他の皆も同様に抱いていたことだった。ケネスは応える。
「隠していたつもりはありません。ここで話の真偽を確かめてからお伝えするつもりでした。サガニの森の奥には、ある種族がいるという説があります」
「ある種族?」
 トーマスは呟いた。ケネスはそれに応じるように言った。
「古くから、村々に伝わってきた民話に時折語られる、『魔族』や『魔女』といった種族です。実在する可能性について、ロイドに確認しました。実際にここに来るまでは不安もありましたが」
 後ろでエドナはまた、小声でモニカに尋ねる。
「『ロイド』って、どなたですか」
「ケネス様と交流のある学者様よ」
「ああ、先ほど話に出ていた……」
 後ろの様子を気にすることなく、ケネスは話を続けた。
「皆さんも、先ほどの話を聞いておわかりだと思いますが、この町は普通の町ではありません。魔の世界と人間の世界の境界に立っている門であるように思われます。あのご老人はあのように仰っていましたが、まだ諦める段階ではありません。そもそも、レムリに解決策そのものがあるとは思っておりません。魔の世界、森の中に行けば、解決策が見つかる可能性があると考えて、ここまで来ているのです」
 五人は返事をせず、宿まで無言で歩いた。
 用意された宿は、小さく、ぼろぼろの建物だった。扉を開けると、ノラと同じぐらいの年齢と見られる少女が出迎えた。
「こんにちは……久しぶりの、お客さん」
 そう言って、少女は記名帳を差し出した。これもまたくたびれた帳面で、一つ前に書かれていた宿泊客の日付は、五年前のものだった。トーマスが代表として名を記入しながら、少女に言った。
「こう言ってはなんだが、寂れているようだな」
「この町を訪れる人はほとんどいませんから。さっき、慌てて掃除したので、埃っぽかったらすみません」
 部屋に案内されながら、廊下の軋む音にトーマスが耳を傾けると、所々が腐っているのが分かった。通された部屋も、エドナやノラにとっては普通の家の部屋と同じように思われたが、他の者にはお世辞にも綺麗とは言いがたい部屋であった。面積だけは広く、六人が一部屋に泊まっても十分な大きさであったが、男部屋と女部屋に分かれて宿泊することになった。先に男達が部屋に通され、次に女達が通される。少女の去り際に、モニカが軽い気持ちで尋ねた。
「お客さんが来ない宿で、よくやっていけてるわね。あなた、他の仕事もしてるの?」
「ええ……というより、ここは仕事じゃないんです。取り壊すのが面倒なだけで、普段は閉まってます。ただ、この建物に泊まる人はいないんですが、温泉だけは人気で、皆よく入浴に来ます。そっちは手入れもちゃんとしてますので、お客さんも良かったら、どうぞ」
「へえ、珍しい。あとで入らせてもらうわ」
 少女は、口元だけで笑みを作って、部屋を立ち去った。扉が閉まると同時に、ノラが尋ねた。
「温泉ってなんですか?」
「天然のお湯の泉よ。そこで湯浴みをすると、特殊な効能によって体に良い影響をもたらすとも言われているわ。まだ私も入ったことはないんだけど」
「温かいんですか」
 エドナが、モニカの言葉に興味を示す。モニカはその反応に微笑んで、嬉しそうに言った。
「こんなときだけど、少しは楽しい事もあるね。ご飯食べたら、一緒に行きましょ」
 
 宿に食事の用意がないため、食事は専門の店を訪ねることになった。無愛想な店の主人や、珍しいものを見る様な視線を投げつけてくる客に囲まれて、六人は会話もそこそこに、味気ない食事を終えた。宿に戻る道すがら、ケネスが「明日、危険が予想されますが、無理にでも森に向かった方が良いかも知れません」と言って、また他の者を考え込ませた。
 トーマスとハーマンは森の先の魔族に可能性が残っていることは認めていたが、そのことによってケネスが危険に曝される事については、歓迎できなかった。特にトーマスは既にノラに情もあったが、二人とも本来の職務はケネスの護衛であり、本来の目的である竜の討伐を蔑ろにした上で別の危険に出会う選択をすることの正当性の欠如に不安を抱いていた。今ケネスが向かおうとしているのは、誰もその詳細を知らない魔の世界であり、人間の世界であるエセンシルを通過する事とは次元の違う話だった。
 モニカは、もう戻ってしまった方が良いと考えていた。ノラが人間の世界でまともに生きられないかもしれないという話は、理解の無い人間に囲まれていれば、の話だと考えていた。この姿を変えられなくても、人間として生きていく方法はあるはずだと思った。
 エドナは、僅かな可能性に賭けて森に向かう事には賛成をしていた。ただ、不安があった。ノラ自身に危険が及ぶ事がひとつだったが、もうひとつ、ケネスがノラの為にそこまでしてくれる気持ちを信じられなかったからだった。そして、老人の言葉も思い出していた。
 ノラはどちらでも良いと思っていた。自分のせいで、誰かが迷惑をするかもしれないと思うと、意見を述べる事は憚られた。既に、旅に無関係な筈の自分と姉の為に、随分と遠回りをさせてしまっている。せめておとなしく、皆の邪魔にならないようにしようと思っていた。
 そうして、誰も明確な意見を述べる事の無いまま、また宿に戻った。辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「あああ、生き返るわ」
 湯にゆっくりと浸りながら、モニカは濁った声を大きく上げた。他の客が引いたあとの、すっかり静かになった温泉は、モニカとエドナとノラの三人には広すぎるくらいに広かった。モニカの姿を見て、思わずエドナは破顔した。真似するように、エドナとノラも湯に浸かる。二人は、慣れない不思議な感触に、くすぐったさを覚えた。モニカは空を仰ぎながら言う。
「良いものね、こういう時間は。こうして上を見上げると、満天の星。平和で、なーんもかんも、全部忘れちゃって」
 モニカは、湯からはみ出て冷たい空気に触れていた肩を沈める。
「……忘れられて、悩みも無くなったら、いいよねえ」
 そうですねえと、エドナは胸を温めながら、安堵の息を漏らす。ノラがそっと湯の中を泳ぎ始めたが、それを諌めることはしなかった。
「エドナぁ。この旅、終わったらさ。うちにおいでよ。うち、広いからさ。二人ぐらい増えて困る様なことなにもないし。ノラちゃんがもしあのままだったとしても、うちの連中は、予め話しておけば、差別する様な馬鹿はいないし。ね」
 突然の申し出にエドナは戸惑う。旅に同行させて貰っている事にさえ遠慮があるのに、生活の面倒を見てもらう事は、過ぎた待遇だと思った。無論、願ってもない申し出であり、飛びつきたい気持ちもエドナの中にはあった。しかし、自分が何もモニカに与えられない事に、エドナはもどかしさを覚えていたのだった。
「そんな、ご迷惑ばかり、おかけできませんよ」
「迷惑じゃないわよ。あたしがそうしたいって言ってるの」
 エドナは迷った。モニカは、エドナにとって今や姉のごとき存在となっている。頼りになる人が側にいてくれるのは嬉しかった。しかし、対等になれない関係に居心地の悪さを感じるのも事実だった。言葉を切ったエドナの代わりに、モニカが言った。
「まさか今更、他人だなんて言わないよね。『角がとれました、ハイさよなら』なんて、あたしは嫌よ。折角仲良くなれたんじゃない。それに」
 モニカはそこで口を噤んだ。「ノラの角は、どうやらとれそうにない」という憶測を口にしようとして、エドナの気持ちを慮ったからだった。誤魔化すように、モニカは言葉を変えて続けた。
「それに、二人だけじゃ、行き詰まるわよ。どこかで」
 それは誤魔化しではあったが、真実の言葉でもあった。エドナとノラの生活が行き当たりばったりのその場しのぎの連続であったろうとモニカは想像していた。
「そうかもしれません、ね」
 自信なさげに俯いたエドナは、ノラの事を考えていた。自分の気持ちが整理できないばかりに、折角のチャンスをノラの分まで不意にしてはならないと感じた。
「モニカさんがそう言ってくれるなら、お言葉に甘えて」
 それを聞いて、モニカの表情が緩まる。
「うん、決まりね。良かったわ」
「あの」
 エドナは、この際疑問をぶつけてしまおうと思った。
「どうしてそこまで、親身になってくれるんですか? ケネス様もそうです。別になにもない、ただの貧乏人二人ですよ。私たちよりも貧しい人たちだって沢山います」
 ケネス達の行動は、エドナにとって理解しがたいことだった。もし自分が同じ立場だったら、歯牙にもかけずに放っておくと思った。縁故も無く、取り立てて才能があるわけでもない身だ。
「元々は、ケネス様の判断よ。旅に同行させよう、って話になったのはね。ケネス様のお考えは分からないけど……今私がこう言ってるのは、もう関わっちゃったからよ。あなた達はもう他人じゃないの。貧しい人たち全員なんて、もともと救えないし。でも、エドナ達二人だけだったら、助けられるじゃない。全ての人を平等に漏れなく救うなんて、私の力じゃできない。でも、あなた達は助けたいと思ったの」
「そういうものなのでしょうか」
 今ひとつ納得できない表情をエドナは露にした。モニカの言葉に「言い訳がましさ」のようなものを感じていた。そして、その言い訳の裏側には、何か別の意図があるのかもしれないと思った。
 モニカには、そんなエドナの態度が面白くなかった。
「エドナ、こっち向いて」
 言われて、エドナは上半身でモニカの方を向く。モニカは少し身を乗り出して、右手をエドナの左頬にあて、左手をお湯の中のエドナの右手に重ねた。そして顔と顔を近づけて言った。
「私がエドナの事を可愛いと思っていて、好きだと思っていて、愛してしまっていて、一緒にいたいって感じている。だからうちにおいでって言った」
 エドナはその言葉に硬直する。遠くでノラがすいすいと泳いでいるのがエドナの目の端に映っていたが、エドナにはそれは見えなかった。エドナの硬直を嘲るようにモニカは口元を歪めてから言った。
「……って言えば、納得するの?」
 モニカは手を離して、元の姿勢に戻った。エドナは硬直が解けずに、何とも答えられずにいた。
「私がどう言葉を尽くしたって、エドナが自分の気持ちと照らし合わせて納得することはできないかもしれないわよ。逆に、どんなに納得するようなことを言われたって、それが本当とは限らないでしょ」
 その言葉にも、エドナは戸惑いのまま、何の返答も返せなかった。モニカは「失敗したな」と思った。
「……ごめん。先に出るね」
 モニカはそう言って立ち上がり、エドナとノラを置いて湯から出た。エドナは慌てて後ろから声を掛けようとしたが、モニカはそれに気づかないように、黙って更衣室に戻って行く。怒らせてしまったかもしれないと、エドナは悔やんだ。
 
 エドナが部屋に戻ると、モニカが装備を整えていた。慌てて同じように防具を着始めると、モニカが言った。
「今日は流石に襲撃なんてないと思うから、ゆっくりでいいわよ。いつもありがとね」
 先ほどのことを謝ろうとした勢いを殺されて、エドナは「あ、はい」とだけ言った。モニカが怒っている様に見えたのは自分の勘違いだったのだろうかという不安が残ったが、話を蒸し返すのは上手くないとも思った。
 そうして、男の更衣室の前に二人で座り込み、エドナ達と交代で入浴し始めたケネス達を警護する。男三人が入浴を終えて寝室に向かうのと同じく、警護場所を部屋の前に移す。廊下に備え付けの灯りはなく、自分達で用意したカンテラだけが煌々と朽ちかけた木を照らしていた。
 エドナとモニカは、暫くなにも話さないでいた。エドナと同様に、モニカも話しづらいと思っていた。自分が余計な事を言ったせいだということは分かっていたが、それをどう取り繕うべきか迷っていた。
 闇の中に照らされる二人の影が、廊下の壁に映る。冷たい風が、隙間から入りこんだ。そして、二人を長い静寂が包み込んだ。
 突如、その静けさを打ち破る様にして轟音が辺りに響き、エドナとモニカの体をぐらぐらと揺らした。
 二人は顔を見合わせた。先に口を開いたのは、モニカだった。
「今の、外からよね」
「多分、そうだと思います」
「エドナは皆を起こしておいて。あたし見てくるから」
 そう言って、モニカは返事も待たずに駆けだした。
 扉を突き飛ばすように勢いよく開く。その瞬間、モニカは自分の目を疑った。だが、これが初めてではないと思い直したとき、モニカはすぐにそれが現実のものであると受け入れる事が出来た。ヘルバンでも似たような経験をしていたのだ。それは、とてつもなく巨大な鳥だった。
 それは梟に似ていた。とりわけ大きく見える翼は、広げれば空を覆ってしまいそうなほどだった。事実、月明かりは翼に阻まれ、モニカには届いていなかった。猛禽らしい凶悪な瞳が獲物を探すようにぎょろぎょろと蠢く。その動きがぴたりと止まり、一点に視線が定まる。その先をモニカが追って見ると、小さな影が闇の中にぽつりと浮かび上がっているのが分かった。その大きさは、まだ子供のそれに見えた。
 その場で仲間の到着を待ってから行動しようと考えていたモニカだったが、怪物が動き出したのを見て、走り出さずにはいられなかった。自分ではこの怪物には全く歯が立たないことは分かっていたが、子供が犠牲になるのは見るに耐えない。せめて逃がすだけでも出来ればと思って、怪物の近くで声を張り上げた。
「あんた、早く逃げなさい! こら、化け物! こっちこっち! かかってこい!」
 言いながら、近くの石を投げつける。三個投げたところで怪物はモニカの存在に気がついた。そして向きを変え、モニカに狙いを定める。モニカには全く勝算がなかったが、とにかく逃げる事にした。
 子供と思しき影とは反対方向に走り出す。逃げて、撒ければ幸運だと考えたが、その見積もりは全く甘かった。この怪物はヘルバンで出会った巨獣とは違って、動きが十分に俊敏であった。しかも、直接触れずとも、大きな翼を一度羽ばたくだけで、モニカへの暴風になった。その怪物が戯れに振るった翼が巻き起こした突風に足下を掬われ、モニカは転倒した。すぐさま起き上がって再び逃げ出そうとするモニカだったが、その時には既に、モニカの頭上に、その鳥の頭が迫っていた。
(本気で、ヤバい。死ぬわ、これ)
 身を翻して、最後の抵抗を試みる。剣を抜き、威嚇しながら少しずつ後ずさる。しかし怪物は、剣を持ったモニカに全くの戦闘力を認めていないように、そのまま口を開いた。それは、モニカを丸呑みしてもまだ余裕があるくらいの大きさの口だった。モニカはそれを見て、諦めた。絶望がモニカを包み込み、モニカは震える足で立つ事が精一杯だった。死を眼前にして、モニカは動かぬ像と化した。
(死ぬ間際に、人生の色んな事を思い出すって言うけど、あれは嘘ね)
 恐怖で凍てついた頭で、そんな下らない事も同時に考えていた。
 そのとき、モニカの左右から、二つの巨大な何かが、猛烈な速度で怪物にぶちあたった。死を覚悟したはずのモニカが呆気にとられていると、その巨大な何かの一つが声を発した。
「おい、小娘。今のうちに離れるんだ、死にたくなきゃあな」
 巨大な何かが実際に何なのかはモニカには分からなかったが、その影は、猿の様にも見えた。そして、モニカはその謎の声に従って、震える足を引き締めて物陰まで走って遠くから様子を窺った。モニカの窮地を救ったその二つの影は、鳥の怪物に比べれば一回り小さく見えたが、なんとか対等に戦える大きさであるようにも思えた。
「ジョナサン、そっち抑えてろよ」
「分かってるって。おら」
 二つの大きな影同士が会話をしながら、鳥の怪物の頭と翼を固める。そしてさらに奥にいる誰かに向かって呼びかけた。
「さあ、さっさとやってくれ!」
 その声が響いて少しの間があったあと、まるで空間が歪んだかのように、怪物周辺の景色が捩じれた。その光景は、モニカにはこの世のものとは思えなかった。怪物と巨大な影が共に、ぐにゃりと曲がったのだ。そして鳥の怪物は奇怪な叫び声を上げた。苦しそうに、逃げたそうに、喘いで、暴れた。曲がった景色からは、悍ましい気配が流れ出しているようであった。遠くで見ているモニカでも、そこから漏れ出る悪意にあてられたらただ事では済まないと感じられるほどの、とてつもない気配であった。やがて声は弱まり、巨大な影達がその手を離すと、鳥の怪物が力なく沈んだ。邪な気配も落ち着き、歪んだ景色は元通りになっていた。
 恐る恐るモニカは近づいてみた。少し遠巻きに倒れた怪物を見る。それもまた、不思議な光景だった。
 どうやら怪物は死んでいるらしかった。しかし、その死体は、既に朽ちかけていた。腐敗し、原型をとどめていない所もある。どんな方法を使えばこのような事になるのか、モニカには想像できなかった。
 一方、皆を起こしてから、モニカに遅れて外に出たエドナは、ちょうど鳥の怪物の後ろ側にいた少女の姿を見ていた。
(あれは、たしか、宿の案内をしてくれたあの子)
 近づいて、危険だと声をかけようとしたが、声を発する事が出来なくなった。その少女の額を見てしまったからだ。少女の額には、角があった。まるでノラと同じように、普通の人間には有り得ない角が。その角は、額の中心に一本、堂々と、真っすぐ、凛々しく生えていた。
 



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