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竜王の国 第六話「二人の王子」

カテゴリ:小説 , 竜王の国  投稿日:2013/01/06

 宿に着き、ベッドにハーマンの身を横たえるなり、トーマスは女部屋に向かった。部屋ではパメラとノラが寝ていたが、かまわずパメラをたたき起こして言った。
「頼む、爺さんを治してくれ、死んじまう」
 寝ぼけ眼のパメラは恐ろしい剣幕のトーマスを見てパニックになりかけたが、それが自分に対する懇願であることを認識すると、言われるままトーマスについていく。血塗れのハーマンを見て、思わず「ひどい」と漏らした。
 モニカは既に応急手当を施し始めていた。だが、モニカにもわかっていた。傷口が大きく、このままでは出血多量で命はない。助かる見込みがあるとすれば、以前にノラがしたと思しき医療の埒外の治療法、つまり魔法による治療である。しかし、今のノラがそれを意図して行えるとは思えない。託せるのは、やはりパメラだけだったのだ。
 遠慮のない騒動に起こされて、ノラも遅れてその部屋にやってきた。ノラはハーマンの姿を見て顔をしかめたが、しかし視線をそらすことはしなかった。エドナがノラの到来に気がついて、ノラを自分たちの部屋に戻そうとしたが、ノラは「大丈夫」と言って、その場に留まった。しかし、やはり心細く、エドナの手をしっかと握っていた。だからエドナは、ハーマンを取り巻く人々の姿を遠巻きに見ているしかなかった。
 パメラは自信無く言った。
「わかりました。ただ、私自身、治療はほとんどしたことがありません。やれるだけは、やってみます。少し離れていてもらえますか」
 トーマスとモニカを退かして、パメラはうなされるハーマンの前に椅子を置いて、座った。そうして目を閉じて、静かな世界に入っていくようだった。エドナは、ノラの手を握りながら、固唾を飲んで見守っていた。
 部屋には、突然のしじまが訪れたようだった。トーマスの荒い息も、パメラの意識を乱さぬように、堪えられていた。見ているしかないエドナには、空気が静止したように思えた。
「癒える」
 ハーマンの体の上にかざされた手から、柔らかな光が溢れだし、ハーマンを包み込む。その場で見ていた全員が、息を飲んだ。光はそのまましばらくハーマンの体に留まってから、やがて消えた。パメラは椅子の背にもたれ掛かって、首を曲げて俯いて深く息をした。モニカが覗き込みハーマンの様子を窺ったが、しかしほとんど見た目に変化が見られなかった。パメラは申し訳なさそうに言った。
「すみません、もう一度、やってみます……一番危険な傷がどこだか、わかりますか」
「え、と、大腿部の出血が一番急を要する怪我です」
 モニカの言葉を受けて、パメラはハーマンの足に手をかざした。そして、ふたたび周囲の時が凍てついたかのような静けさが訪れた後、「癒える」とパメラは呟いた。
 パメラの手から溢れた光が、ハーマンの傷のごく一部に集まり、強く輝いた。その光が収まった頃、またモニカが身を乗り出して傷を検めると、そこには皮膚が溶けてくっついたような傷跡だけが見られた。パメラはまた深く椅子に腰掛けて、今度は肩で息をした。
「すみませんが、これが限界です」
「ありがとう。あとは私に任せてください。トム、手伝って」
 モニカが後に続いて治療にあたる。エドナとノラは、パメラを連れて、邪魔にならないよう、自分たちの部屋に戻った。不安な心を少しでも紛らわしたくて、エドナはパメラに話を振った。
「傷を治す魔法は、難しいんですか」
 パメラは疲れた顔を見せながら答えた。
「ええ。『光る』とか『燃える』などに比べれば、遙かに難しい部類に入ります。光のイメージ、炎のイメージが直接思い浮かべられるのに対して、『傷が癒える』というのはより抽象的ですから、そのイメージの正しい在処を掴むのが困難なのです。傷も裂傷、打撲、骨折、いろいろありますので。先ほど私は太股の正しい姿を思い浮かべましたが……どうやら、良い方法ではなさそうです」
 ノラはそれを聞いて、また思い出したように「光る」と唱え始めた。半ば呆れたようにエドナはノラを見ていたが、パメラは疲労に耐えられなくなったようにベッドに倒れ込み、すやすやと寝息をたてた。
 それから、エドナは寝るわけにもいかず、ひたすら練習し続けるノラを見続けた。途中、一度だけ小さな光が、ぽっと輝いた。エドナとともに、当のノラも驚いた。
 しばらくして、静かに扉が開いて、モニカが入ってきた。モニカの手は綺麗だったが、服はいくらか血に塗れていた。しかしそれらよりもっとエドナの目を引いたのは、モニカの赤く腫れた目だった。それだけで、ハーマンがもうこの世にはいないであろうことがわかった。モニカは部屋にある椅子に腰掛け、テーブルに目を落としながらベッドの縁に座るエドナとノラに言った。
「ごめんなさい。説明しないといけないよね。ハーマンさんは、ダメだった。外出血はほとんど収まったんだけど、肋骨が肺に刺さってたみたい。他の臓器も、多分……力及ばず、情けない話よね」
 自嘲気味に少しだけ頬を上げたモニカに、エドナはかける言葉が見つからなかった。ノラは、エドナの隣でモニカとエドナの表情を見比べていた。
 エドナは、ただモニカが何かを話してくれるのを待ち続けていた。エドナは自分がいま何をすべきなのかがわからず、モニカの側に寄ることもできずにいた。エドナは、ハーマンを失った悲しみをモニカやトーマスと完全には共有できないことをわかっていた。結局、ハーマンと一対一で話す機会を持つことはなく、彼の事はほとんど知らないと言ってもいい。
 もちろん、まるきり悲しくないというわけではない。共に旅をしてきた仲間を失ったことは、エドナにとっても辛いことであった。だが、両親を目の前で殺された時の衝撃に比べたら、今目の前で起こっていることは、ほとんど自分とは無関係の世界のことであるかのようにさえ感じられたのだ。自分から悲しい気分が湧きあがるのではなくて、モニカの悲しむ姿にあてられて悲しみを抱いているような気分であった。
 ためらいがちな小さいノック音が響いて、続けてトーマスの声で「入っていいか」と聞こえた。言葉で返事をする前に、ノラがトトと扉まで軽く駆け、迎え入れるように扉を開けた。
 トーマスも、どんよりとした暗い気持ちを顔に出していた。入り口の近くに立ったまま、モニカとエドナとノラを一瞥してから、トーマスは言った。
「こんな時だが、明日からの事を決めておきたい」
 モニカはトーマスに目も合わせず、エドナだけが頷いた。
「その前に、爺さんが最期に話したことをエドナにも伝えておこう。爺さんは、ケネス様にやられたそうだ」
 エドナは目を見開いた。そんなことがあり得るのか。ケネスがそんなことをする動機があるのか。そもそも人間でハーマンを傷つけることのできる者がいることさえ怪しい。それを、あのケネスが、ハーマンを死に至らしめるほどの重傷を負わせたというのか。エドナは俄には信じることができなかった。
「ケネス様は……爺さんは言葉を濁していたが、『力を求めた』らしい。志を遂げる為に、途方もない力が必要なのだと。爺さんがケネス様の目的を知っていたのかどうかはわからんが、ケネス様を『恨むな』と言っていた。悪いのは、止めようとした自分なのだと。そうして、ケネス様はどこかに行ってしまったそうだ」
「そ、それって」
 エドナには「力を求めた」という言葉がどういう意味を持っているのかはわからなかったが、少なくともハーマンをあれだけ傷つけることができるような何かをケネスは手に入れたということだ。エドナはふと、レムリの老人の言葉を思いだした。
「ケネス様の、本当の目的……」
 老人には「ノラは言い訳にすぎない」と言われていた。ケネスの目的は最初から、魔族だったのではないのか。魔族と接触して、何らかの力を得る。そのために、魔族に接近する為の言い訳が必要だった。そう考えたとき、エドナはすとんと腑に落ちた。ケネスの行動の根の在処がわかって、納得することができた。
「ケネス様が何を考えているのか、細かいことはわからん。だが、穏当な結論ではないだろうな。俺はこのまま、ケネス様を黙って見過ごすつもりはない」
「どうする気?」
 押し黙っていたモニカが、俯いたまま尋ねた。
「俺は……モニカもだが、そもそもケネス様を護衛するために旅をしてきた。王宮にとって、俺はそれだけの価値しか持たん。だから、とりあえずケネス様を探すつもりではあるが、見つけて、とにかく話をしなければ。場合によっては、ケネス様を……」
 トーマスは言葉を切ったが、固く握りしめた拳が、その先を語っていた。
「どうせ俺は元々根無し草だ。だがおまえらまで巻き込むつもりはない。エドナとノラは、ここで事が済んだら村に帰るといい。モニカも、自分の身の振り方を考えて……お咎めがないといいな」
 エドナが「でも」と言葉を返そうとするのを、モニカが「エドナ」と制止した。モニカは徐ろに立ち上がり、トーマスに近づいた。
「わかった。あんたも、それなりの覚悟があって言ってるのよね。骨は拾えたら、拾ってあげる」
「ああ。骨が残るといいな」
 モニカは軽くトーマスの胸を裏拳で叩いた。
 
 翌日、朝早くに魔族の使いが宿までやってきて、首飾りをノラに渡した。着用してみると、みるみるうちに角が姿を隠した。当面の目標を達成したエドナは、肩の荷が降りた気分だった。
 朝食を食べると、すぐにレムリに戻ることにした。トーマスは、魔族にケネスの事を尋ねようかとも考えたが、それより早く当人を探した方がよいだろうと思った。
 レムリで四人はパメラに感謝の意を述べる。既に夕暮れ時だったため、一晩泊まっていくよう四人に勧めた。モニカはそれを快く受け入れたが、トーマスは「悪いが俺は行く」と言って、町の門に向かう。ノラがそれに追いすがった。
「本当に行っちゃうの? 駄目だよ」
 ノラの言葉にトーマスは振り向いて、微笑んでノラの頭を撫でた。
「ありがとう。だが俺は行かなきゃならん」
「まだ、まだ、本、『教え』の本、最後までいってないよ」
「中途半端でごめんな」
 目に涙をためたノラの頭に合わせて、トーマスは腰を屈めた。
「お前たちと一緒に過ごした時間は、楽しかったよ。ノラ、エドナの言うことを聞いて、達者で暮らすんだぞ。じゃあな」
 ぽんぽんと最後にノラの頭を叩いて、返事を待たずにトーマスは背筋を延ばして、そのまま背を向けて歩きだす。それを送り出すようにエドナが「また、今度、続きを教えてください!」と大きく声を掛けたが、返事はなかった。
 エドナは、立ち尽くして咽び泣くノラの肩を抱いた。
 宿の部屋につくと、モニカはベッドに身を投げ出した。うつ伏せになり、誰にも顔を見せないようにしながらそっと泣いた。泣き続けていたノラにはモニカのその状態がわからなかったが、エドナは顔を見なくても、漏れ聞こえる音でわかっていた。これで、三人がいなくなった。あっという間に、旅の仲間が半分になってしまったのだ。
 エドナは、泣こうとは思わなかった。いずれこうなるであろうことはわかっていたのだ。自分たちは余所者、旅の道連れに過ぎない。元々、どこまでも一緒ではなかったのだ。それが早まっただけなのだから、取り立てて悲しむべきことではないのだと思った。しかしトーマスの動向は心配だった。あんな風に声を掛けたが、きっともう会うことはないのだろうと覚悟していた。
 三人は、食事をとることもなく、そのままその部屋で夜を迎え、そのまま寝ることにした。それまで会話はほとんどなく、それぞれが、それぞれの思いを胸に抱いたまま、体全体に染み渡る時間を過ごした。
 
「眠れない……」
 エドナを中心にして三人が横になってしばらくしたとき、モニカが小さく漏らした。同様に眠れていなかったエドナは、モニカの肩を指でつついた。モニカはエドナの方へ首を向けて「エドナも?」と返事の必要のない問いかけをした。エドナが微笑みでそれを肯定すると、モニカは「短い時間でこんなに変わっちゃうんだね」と言った。
 ノラがもっと幼い頃、夜中にぐずったときのことをエドナは思い出した。今は、自分がモニカの姉にならなければならないのだろうと感じていた。
「もし、話したいことがあったら、遠慮なく話してください。モニカさんの話なら、私が聞きます。夜はまだ、先が長いですから」
「……へへへへ、エドナって、本当にいい子だね」
 目を伏せて、ほんの少しモニカは笑顔を見せて言った。首だけでなく体もエドナの方に向けてから、少しの間そのまま沈黙した。モニカが何か考えているのか、あるいは眠りについたのかが、エドナにはわからなかったが、モニカは寝言のように、目を伏せたまま語りだした。
「ハーマンさんは……小さい頃から知ってるんだ。初めて会ったときは、大きいおじさんだなって、思った。時々うちに来て、父と何か話してたけど、父と仲のいい、よそのおじさんぐらいにしか思ってなかった。あの頃は、戦争のこととか、政治のこととか、チンプンカンプンだったからね。今でもそうかな、私は結局、落ちこぼれだったから。医学の道に進もうと決めて、親が決めた縁談を蹴ったときに、勘当されそうだった私を庇ってくれたのは、ハーマンさんだったんだよね。そのとき初めて、ハーマンさんの名前を知ったぐらいだったんだけど。それから、晴れて医者になって、また家が少しごたごたして、フラフラするなって言われて……近衛隊医療班の仕事を紹介してもらって……そこから巡り巡って、今の私設護衛団に至るまで、ハーマンさんの口添えなしにいられたことなんてなかった。感謝しても、し足りないのにね」
「伝わってますよ、きっと」
「だといいけどね。トムも似たようなもので……ハーマンさんがいなければ、今みたいな立派な立場にいなかったでしょうね」
「そうなんですか?」
「あいつさ、元々盗賊の頭領やってたのよ。足が速くて、腕が立つから、大分恐れられてたみたい」
 エドナは、自身の持っている盗賊のイメージとトーマスとが重ならなかった。
「ハーマンさんがその盗賊団をぶっ飛ばしちゃったんだけどさ。見込みがあるって、ハーマンさんがトーマスを勧誘したんだって。ハーマンさんって元傭兵で、傭兵団ってそれこそ元盗賊とか、ろくでもない連中がいっぱいいるから、トムが盗賊だってこともあんまり気にしなかったみたい。トムを学校に行かせて、私設護衛団に登用した。ケネス様はトムの生い立ちを聞いて、面白がってた。『異民族だからこそ盗賊に身をやつした事情は察するに余りある』って言ってたけど、本当はただ、個人的興味だったんだと思う」
 モニカはエドナと目を合わせて、目を細めた。それから、薄らと瞳に涙をにじませた。
「ケネス様、どうしちゃったんだろう。まあ、仕方ないのかも知れないけど」
「心当たりがあるんですか?」
 ケネスとハーマンの間になにが起こったのかは未だわからずじまいだが、ケネスが凶行に及んだ事はほぼ間違いない。エドナはその理由までは想像がつかなかった。モニカは内緒話をするように、小さな声で答えた。
「前に、ちょっとだけ話に出たけど……ケネス様、『忌み子』って呼ばれてるって話、あったでしょ。こんな事になっちゃったし、もう話してもいいと思うんだけど」
 モニカは気を持たせるように、少し間をおいた。
「ケネス様は、今の王様のご子息ってことになってるけど」
「え、違うんですか」
「そう、違うの。でも、お后さまが母親なのは本当。意味分かる?」
 エドナは瞬きをせず、小さく頷いた。モニカは言った。
「本当の父親は、先代の王。先代の王のお后さまの姪を、今の王様の后として迎えさせたんだけど……そのときすでに、その姪の方は先代の『お手つき』だったらしいの」
 エドナは眉を顰めた。
「ひどい話、ですね」
「今の王様も、その事実はご存知。でも、そもそも、王様はお后さまのことを愛していらっしゃらない。下世話な話だけど、一度も寝てないんですって。でも、公にすれば恥をかくのは自分だと思ってるから、そんなことは絶対に言わない。世間的にはケネス様は王様の子供ってことになってる。しかも、王様にはお后さまとは別に、愛するお妾さんがいて、そちらにはちゃんと王様の本当の子供が生まれた。それがケネス様の弟君にあたる人なわけだけど、王様がケネス様のこと快く思わない理由がわかるでしょ。だから、ケネス様は『忌み子』なのよ」
 エドナは、政治のことなどわからないが、王族というのは華やかで楽しい生活をしているのだと思っていた。だが、ケネスがそんな環境で生まれ育ったと言うなら、彼が今まで浴びてきた悪意は、自分が受けてきた悪意の比ではないかも知れない。幼いケネスを想像して、胸が痛んだ。
「そして、だからこそ『ドラゴン退治の旅』なのよ」
「だからというのは」
「ドラゴンなんて、人間の手に負えるものじゃない。でも、『ドラゴンを倒す旅』として華々しく送り出されたら、ケネス様の立場上、拒否することなんてできないわ。『倒せませんでした』で戻れば処罰もできるし、本当にドラゴンに挑めば、まず死ぬでしょう。どちらも避けるためには、辺りを放浪して時間を稼ぐぐらいしか方法はない。ケネス様を政治の舞台から引きずりおろしたい王様としては、どう転んでも万々歳な手なわけ」
「そんな回りくどいことしなくても、弟さんを王様にしたいんだったら、そうすればいいんじゃないんですか」
「弟君は妾腹よ。長男でお后様の子であるケネス様とじゃ、王位継承順位で争えるレベルじゃないわ。理由なしにケネス様を次の権力者の座から外すことはできない。しかも今のお后さまは、隣国のシュランツ王国の王族出身だし、下手をすれば国際問題にも発展するかもしれない。ケネス様が死ぬのが、王様にとって一番いいんでしょうね。私たちの護衛って、一番は『王様の手の者からケネス様を守ること』が目的なのよ。……だったのよ。町の荒くれとか、盗賊とか雇って、けしかけてくるんだから」
「……そう、なんですか」
 そう返すことしか、エドナにはできなかった。エドナにとっては雲の上の話。それでも、モニカの気持ちは理解できる気がした。モニカはきっと、ケネスを憎むこともできないでいるのだ。ハーマンの死は悲しい。ケネスがしたことも許されない。だが、ケネスには、悪意をはねとばすだけの力が必要だった。エドナはそれを理解できないような子供ではない。エドナは問うた。
「先生……トーマスさんも、それは」
「知ってる。だから、あいつはきっと、ケネス様がなにをしようとしているのか確かめて、許したいのよ。でも……エドナとノラちゃんはともかく、私とトムは、咎めを免れないでしょうね。正直言って、想定できる内で最悪のパターンよ。王族の護衛を失敗して、護衛対象は行方知れず、じゃ死刑になってもおかしくないわ。それにケネス様には多分目的がある。あるいは現政権の転覆を考えてるかもしれない。なんでそっちに頭が回らなかったんだろう。いっそ、死んだことにして放浪しようかな」
 モニカはそう言って、深く息を吐いた。少なくとも王は表面上、ケネスに不幸があればそれを悼み、守りきれなかった者たちを処罰するだろう。家が守ってくれたとしても、それで自分の罪が不問になるはずはないと、モニカは思った。
「話したら、少し眠くなった。ありがとう、エドナ」
 モニカは、そう言って目を閉じる。またエドナは、妹をあやすように、優しくモニカの頭を撫でた。
「私はなにもしてませんよ。おやすみなさい」
「もう遅いから、エドナも寝ときなさいね。おやすみ……」
 モニカの返事を聞いてから、エドナも、そっと目を閉じた。しかし、頭には今聞いたばかりの話が渦巻き、より長い夜を過ごすことになった。
 
 翌朝、エドナが目を覚ますと、「お腹空いた」とノラがその目覚めを待ちわびていた。エドナは、モニカをそっと揺り起こして、支度をして宿を後にした。
 店で朝食をとり、町長とパメラに挨拶をして、そのままレムリを出る。馬車の中を見ると、少ないトーマスの荷物だけがそっくり無くなっていた。
「これからどうするんですか?」
 レムリからエセンシル領内で一番近い村に向かいながら、エドナはモニカに尋ねる。モニカは馬を引くエドナの隣で、問いを返した。
「エドナはどうしたい?」
「私たちは、もうできることはありませんから、なにもなければ村に戻ります。でも今はモニカさんが心配です。もしあの約束がまだ有効なのだとしたら、一緒に行かせてください」
 それは、温泉の中でした約束だった。モニカの家に厄介になるという計画。だが、あのときとは事情が変わってしまった。モニカがどうするつもりなのか、それを聞かなければ、エドナは自分の身の振り方も決められなかった。モニカは答えた。
「あたしは、ちょっと考えてることがあって、一度家に寄りたいの。ただ、もうあそこで暮らすことはできないだろうから……その後のことは、そのときに考えるけど」
「じゃあ、私たちと一緒に暮らしましょうよ。大丈夫、私は狩りもできるし、モニカさんはお医者さんですし」
「あはは。でも、そうなると、多分国外よ」
「構いません。言葉さえ通じれば、別にどこでも。私たちに故郷はないですから」
 モニカは天を仰いだ。それからエドナは、モニカの言葉通りに馬を進ませた。
 馬車は村や町を経、国境を越え、故郷の国に戻ってきた。そして、セントにたどり着くと、三人は防具ではなく、普通の町民の服を調達する。目立つのを避けるため防具と武器と馬車は売り払ったが、エドナが「これだけは、側に置いておきたいんです」と言って、弓と矢だけは残した。モニカは理髪店で長かった髪を切って、一目で自分であると他人に認識させないように努めた。その時から、名前を偽の身分証明書に記載された「パトリシア」あるいは「パティ」と、エドナとノラに呼ばせるようにした。
 そしてセントを出、首都の隣町であるスニールの街にたどり着いたころには、レムリを出てから二十五日が経過していた。
 スニールは港町である。海を初めて見たエドナとノラも、感慨に耽っている余裕は無かった。カモメが群れ飛ぶ景色を横目で見ながら、エドナとノラは俯き加減に早足で歩くモニカを小走り気味に追いかけた。
 やがて、大きな屋敷にたどり着いた。モニカは門の前で一旦足を止めて、エドナとノラに、密やかに言った。
「レイフィールド家……地元の名士で、政界にも顔が利く。私はここの長女として生まれたわ。貴い身分として生きてきたけど、それも、今日でおしまい」
 モニカはそのまま門をくぐると、中庭で箒を持って掃き掃除をしている女に声をかけた。
「アニス、元気?」
 アニスと呼ばれた女ははっと顔を向けて、一瞬の逡巡の後に声を掛けた人物が何者であるか分かって、口元に手をあて驚きの表情を少しだけ隠した。
「あっ、モニカ様……ですか?」
 アニスの視線はモニカの頭部に集中していた。ずっと長かった髪を切っただけでそこまで驚かれるものかと、モニカは心中で苦笑した。
「お父様、いらっしゃる?」
「は、はい、おそらく執務室に……あの、お帰りなさいませ」
 深々とお辞儀をするアニスに微笑み掛けて、モニカはエドナとノラを促しつつ建物に入った。
 中に入って執務室に向かう途中で執事や何人かの使用人とすれ違ったが、皆一様にモニカの見た目の変化に驚いていた。そして、モニカの後ろにつく二人の褐色の娘が何者であるのか、訝っていた。
 ノックをして「モニカです」と声を掛けると、少しの間の後で「入りなさい」と返ってきた。モニカは静かに扉を開け、エドナとノラを連れて、父親の前に立った。
「ケネス様の護衛は終わったのか」
 書類に目をやりながら、父親は娘に問うた。娘は姿勢を正して答える。
「終わりました……ある意味。実はそのことで、ご相談というか、ご報告というか、ご挨拶というか、がありまして」
 その言葉を聞いて、父親はふふと鼻を鳴らして首をあげモニカの姿を見た。そして他の者と同様にちょっと眉を顰めてから、後ろの二人を見て「そちらは」と尋ねた。
「ご紹介が遅れました、私の友人のエドナさんとノラさんです。旅の途中で知り合いまして、ワガママを言ってついてきて頂いたんです」
 モニカが手でエドナとノラを示すのに合わせて、エドナとノラはお辞儀をした。父親は別段興味がないように、話を戻した。
「それで、相談とか報告とか言うのは」
「はい。ケネス様なんですが、結論から申しますと、旅の途中で、失踪なさいまして」
 モニカは、魔族やレムリのことには触れずに、ケネスが自分の意志でどこかへ去ったらしいということを伝えた。そして、ハーマンがその際に殺されたらしいということも伝えると、父親は腕を組んで唸った。
「そうか、あの人が」
 額に皺を作ると、さらに続けて言った。
「それで、なるほど、お前はその格好か。しかしお前は、いつも問題ばかり持ち込むな」
「すみません」
 モニカは感情のこもらない謝罪をした。父の叱りを素直に飲み込んだことのないモニカにとって、それはいつものことだった。
「今自分がまずい立場にいることは分かっているな。このまま戻れば、責任を追及されて死罪もありうる。可愛い一人娘だ。かばってやりたいところだが」
 父親は椅子から立ち上がり、ゆっくりとモニカの前を歩く。モニカは毅然として言った。
「それには及びません。お父様の立場も、家の方針も分かっているつもりです。ですから、一つだけお願いが」
「なんだ」
「私は、今日からモニカ・レイフィールドではありません。モニカは死にました。旅の途中、魔物に襲われて、ケネス様は行方不明、仲間のモニカは死亡。そのようにしていただけないでしょうか。それぐらいの根回しは、お父様なら造作もないことかと存じます」
「結論が極端だな。お前自身も行方不明ということにしておけばいいものを。王子が無事に戻られる可能性も無くはないのだろう」
 父親は隣に立って我が子を見た。モニカは、それに目を合わせずに答えた。
「では、ひとまずそのように。ですが、ケネス様が無事だとしても、ケネス様は穏便にことを運ぶつもりはないでしょう。ケネス様が、仮に政権転覆を企図していたとして……いずれにしても、私にはモニカという人間を捨てる以外に生きる道はないんです。あとは、お父様や将来を嘱望されたお兄様方のご迷惑にならない形で処理していただければ」
 父親はため息を一つついた。
「あのとき、素直に私の言うことを聞いておれば、こんなことにはならなかったろうに」
 言いながら父親は椅子に戻っていく。モニカはその言葉を無視するように、何の反応もしなかった。
「モニカでなくなったあと、お前はどうするんだ」
「既に身分は作ってあります。パトリシアと名乗って、エセンシルで、医者でもして暮らそうかと」
「そうか」
「ですから、今日はお別れを申し上げに来たんです。今までお世話になりました。勝手な娘でごめんなさい」
 モニカは深々と頭を下げた。それまでのモニカの人生がモニカの中を掛け巡る。幼少から現在に至るまで、この家で過ごした全ての思い出と決別して生きるのだという決意がそれをもたらした。
 いい記憶は少なかった。この家に生まれたことで、選べなかった人生もある。知ることができなかったこともある。持たなくていい対抗心や、感じなくていい怒りを持ったのも、ここに生まれたからだった。それにも拘らず、モニカは涙しそうになった。だが、父親の前であることを考えて必死にそれを堪えた。怒りも悲しみも、あらゆる感情を内包していたこの場所を捨てるということが、「モニカ」を捨てるということと同義だった。
 最後なのだから一晩泊まっていけという父親の情も、モニカは決意が鈍ると思って、断った。ならばせめてと、父親は妻の形見の指輪をモニカに渡した。モニカはそれを懐にしまって、また一礼して執務室を出た。
 玄関の扉を開けたとき、モニカに一番年の近い兄が丁度帰りつくところに出くわした。兄はモニカの様子を見て驚いた後、軽口をたたいた。
「なんだ、どちら様かと思ったらモニカじゃないか。雰囲気変えて、新しい彼女連れて、父上にご挨拶かい?」
 ヘラヘラと笑う兄に向かってモニカは、それまでであれば嫌みの一つも返したところを、神妙な面もちで「兄さん」と呼び返した。兄はモニカの態度に一変して、まじめな顔つきになった。
「なんだよ、らしくもない」
「今日で多分、今生の別れになるの。事情はお父様から聞いて。あんたヤな奴だったけど……元気でね。他のお兄様方にもよろしく伝えておいて」
「お、おい、なんだ今生の別れって」
「もう会えないってことよ」
「んなこたぁ分かってる。なんでそんなことになるんだって」
「話すと長いのよ。お父様には全部話したから、そちらから聞いて頂戴。あたし、今あんまり人目に付くところにいられないのよ。ごめんね」
 呆気にとられている兄を置いて、モニカはエドナとノラを連れて外に出る。ノラが海風に一つくしゃみをした。
 
 隣町の宿に向かう途中、触れ役が妙なことを声高に知らせているのを三人は耳にした。「最近、国内の町や村で奇怪な現象が起きている。見たこともない異形の魔物を目にしたという者もいる。これを受け、国は現在調査に乗り出している。皆の者は各自注意しつつ、調査に協力するように」とのことだった。
 宿の部屋でモニカはぼんやりと、自分がいかに不誠実であるかを考えた。ハーマンであればこのようにせず、ケネスをかばいながら、自分の失態を王宮に持ち帰るだろう。その後の処遇に悪意が満ちているとしても、彼ならばきっとそうしたはずだと、モニカは思った。しかし、自分にはその勇気も男気もない。ケネスが何か企んでいるのだとすれば、国の形すら変わってしまうかも知れないのだ。自分がしていることが逃避であることは分かっている。だが今モニカには、自分が真になすべきことがなにか、わからなかった。
 翌朝、再び三人は国境へ向かって歩きだした。急ぐ旅ではなかったから、町やそこに住む人々、そこにある風景、生活様式、自分の経験をモニカはエドナとノラに話した。二人に世の中のことを教えるつもりでもあったが、その行為にモニカは自身の郷愁を託していた。自分の思い出を知る人がそばにいてほしいと思った。
 レイフィールド家があった町から辿って三つ目の町を歩いているとき、人々のざわめきが遠くから聞こえた。それは歓声ではなく、焦燥や狂騒といった様相だった。ある者は悲鳴をあげ、ある者は意味もなく走り回っている。ほとんどの人の視線は一つに収斂していた。三人はそれをのぞき見ようと、見通しの良いはずの大通りに出たが、視界を人々の頭に遮られた中でそれが見えたのはエドナだけであった。
 それは遠くに見える、大きな影であった。その影は大空に浮かび、こちらに向かって飛んでいる。大きな翼を広げ、ゆっくりと羽ばたき、体を上下に揺らしながら、確実に影は大きくなっていた。
「きっと魔物です。それも、かなり大きい」
 エドナは影に目を向けながら言った。モニカとノラは何度か飛び跳ねてそれを見る。
「なんだか嫌な感じね。ヘルバンで戦って以来、これで三回目じゃない。あんなでかいの、少なくともこの国にはいなかったのに」
 モニカがそう言い終わると同時に、その巨大な影から、これまた巨大な何かが町に向かって放たれた。赤い球に見えるそれは、とてつもない速度で三人の後方、町でもっとも高い建築物である教会に激突する。耳をつんざく様な激しい音が鋭く熱い風とともに背後から迫った。三人が振り返ると、教会は無惨に崩れさり、残骸のうち木でできていた部分は燃えている。
「げ、まさか」
 モニカはエドナとノラの手を引いて駆け出す。とにかくいち早くこの場所を離れたかった。人々がパニックに陥り混乱の最中に巻き込まれる前に、人々が事態に固まっている間に、速やかに避難しなければならないと思った。
「なんですか、いまの」
 走りながらエドナは問うた。モニカは答えた。
「伝説通りだとするなら、あの火球はドラゴンのものだと思う」
 太陽の光を遮り、暴風を巻き起こしながら頭上を巨大な何かが通り過ぎた。モニカはそのときはっきりと、それが紛れもなく竜であると確信した。竜の行く先を、その進路を見て、モニカは思った。
(あいつは首都を目指してる。でも、なんで、今まで大人しかったはずのドラゴンが)
 その後一瞬、ケネスのことが頭をよぎったが、どう考えれば今の事態がつながるのか、モニカには分からなかった。



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