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倫理と科学をちゃんと分けて考えましょう。

カテゴリ:雑談  投稿日:2017/12/21

↓の記事を読みました。
広瀬隆雄と田端信太郎の差別発言が想像を絶する酷さで俺の怒りが有頂天 – 今日も得る物なしZ

正直、はあちゅうさんという方のことはよく存じ上げませんし、何を語ったのかも知りません。そのうえで、上記エントリを読み「やっぱり倫理と科学を結び付けて考える人はいるのだな」と思ったので、あえて本エントリを投稿します。

この話題には複数の争点があり、その争点が混在すると議論として成立しません。おそらく、争点になるのは次のポイントです。

(1)「童貞」という言葉は差別用語か
(2)自然科学の仮説を社会倫理の基準として用いてよいか
(3)性に対する多様な価値観を無視した「勝者」と「敗者」の概念を社会共通のものとしてよいか
(4)「敗者」を蔑視する言動は許容されるか

以下、私の意見です。

まず「(1)「童貞」という言葉は差別用語か」ですが、ある言葉が差別用語に相当するかは必ずしもその言葉の本来持っている意味のみに由来しません。もともと差別的な意味合いを持つ語もあるでしょうが、ある特定の属性を持つ人をさす語が歴史的に侮蔑の文脈で使用され続ければ、差別用語になりえるでしょう。それは変更可能な属性であろうがなかろうが、です。私は現時点において「童貞」が差別用語であるとは思いませんが、リンク先のエントリで参照されるツイートのような文脈で使用されつづければ「童貞」が差別用語たりえるだろうと思います。

次に「(2)自然科学の仮説を社会倫理の基準として用いてよいか」ですが、これは用いてはいけません。真っ当な自然科学の学説が倫理の正当性に言及することはあり得ないからです。仮に進化論が「勝者」と「敗者」を定義づけたとしても、「だから勝者が敗者を虐げてよい」という倫理が正しいと進化論は言いません。学説からそれを読み取ったとするなら、それは誤読です。
※余談ですが、野生生物を観察しての学説を人間の倫理規範に当てはめるならば、究極的には「人間は野生にかえるべきである」という言説になりえます。
※さらに余談ですが、オスの熊は子持ちのメスの発情を促すための子殺しをするそうですね。合理的ですね。

次に「(3)性に対する多様な価値観を無視した「勝者」と「敗者」の概念を社会共通のものとしてよいか」ですが、多様な価値観を認めるという観点に一律な勝者/敗者の定義は難しいと言わざるを得ません。(2)で言及したように、だからといって自然科学に正当性を求めるのも誤りです。「正当な価値観」を定義することは困難でしょう。

最後に「(4)「敗者」を蔑視する言動は許容されるか」ですが、そもそも「誰かを蔑視する言動は許容されるのか」という問題が先にあります。この部分が真に倫理的課題です。少なくとも人前でそのような発言をすることは許容されていないように思われます。倫理観は個々人の自由ですし「蔑視とはどのようなものか」についても人によって認識に差があると思われますが、社会で共有されるべき倫理規範があるとするなら、それは対称性を持つべきで、「蔑視をする言動は許容される」という規範を主張するならば、自身もその蔑視の声に耐える覚悟は最低限必要です。

また「理由があれば蔑視してもよい」と考える人もいるかもしれません。とりわけリンク先のエントリで語られているのはこの部分であり、差別問題の本丸です。「理由があれば蔑視してもよい」というスタンスをとる場合でも、前述の(3)により、多様な価値観による「理由」が用意される可能性がありますので、自分だけ常に蔑視する側にいられるわけではないことに留意すべきです。「太っている」とか「体毛が多い」とか「頭髪が少ない」とか「体臭が強い」とか「鼻が低い」とか「背が低い」とか「老齢である」とか、いろんな「理由」で蔑視をすることは簡単です。そして、その理由に「正当」も「不当」もありません。科学はそんなこと言いません。

私は「理由があっても人前で堂々と蔑視発言をすることは許されない社会」の方が、比較的生きやすいかなと思います。



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