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はだしのゲン閉架問題は、表現の自由の侵害なのか

カテゴリ:雑談  投稿日:2013/08/21

松江市の、「はだしのゲン」閉架のニュースがネット上を駆け巡っている。

この件には、多数の非難がネット上で叫ばれている。
その非難には、次に上げる二種類の論旨がある。
1.はだしのゲンのような優れた作品を子供たちに見せないとは、何事か。
2.この閉架措置は表現の自由を侵害するものである。何事か。

特に最近Twitterで流行りなのは、2の論旨である。そして、それは1を主張する人に対する非難を伴っている場合がある。「この件を『優れた作品をこどもから隠すこと』を理由に非難している人間は、内容が優れていないとされる作品が規制される時に反対をする人間ではない」という非難である。

さて、今回の件は、表現規制にあたるのだろうか。

「ある特定の内容の作品を、人目から隠す、あるいは制作・所有することを禁ずる」というのが、表現規制のあり方である。今回の場合は、「はだしのゲン」という作品を人目から隠しているわけだから、表現規制にあたるような気もする。

だが、今回話題になっているのは、「小中学校の図書室」なのである。小中学校の図書室はそもそも、「教育方針にそぐわない本は、まず置かれることがない、特殊な空間」である。普通の図書館とはそもそも求められている役割も、果たしている機能も違う。「はだしのゲン」に限らず、要望を出しても導入されることのない書籍は山のようにあるだろう。小中学校の図書室というのは、そういうものである。

だから、誤解を恐れずに言えば、「小中学校の図書室において、表現規制があるのは当たり前」なのである。けれど、それは一般的な表現規制とは少し趣が異なる。感覚としては「教科書に採用するか否か」の審査に近いものがある。もう少し基準は緩いだろうけれど、もともと学校の図書館は、教育委員会の方針に沿った教育の一環として設置されていると見るのが自然である。

つまり、今回の件で「表現規制であること」を理由に非難する為には、図書室の問題だけではなく、そもそもの日本の教育の体制についての問題を提起しなければならない。図書室で表現規制が行われているのは事実であろうが、それは氷山の一角に過ぎない。

少なくとも小中学校の図書室において、表現規制が行われること自体は自然な行為である。学校というのは、ある一定の方針に沿って教育を施すものである。そしてその方針の根底には、思想が流れているはずなのだ。



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