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言葉が他者に通じていることを証明することはできない

カテゴリ:雑談  投稿日:2013/08/11

ネット上には言葉が溢れている。
ある人はTwitterを使い、ある人はFacebookを使い、スマートフォンにLINEを導入し、日々他者と言葉を交わしている。

ネット上だけではない。テレビやラジオや本などのメディアや、学校の授業、親子の会話、井戸端会議……あらゆるところで、人が誰かとコミュニケーションを取ろうと思ったとき、何かを伝えようと思ったとき、言葉を使わないことはほとんどない。この記事だって、すべて言葉で構成されている。かの有名なヘレン・ケラーも、視覚と聴覚に障碍を持ちながらも、サリヴァン先生のおかげで言葉を手に入れ、他者の伝えたいことを理解できるようになり、他者に自分の伝えたいことを伝えられるようになった。僕らは、言葉によって他の人に、思っていること、考えていることを伝えることができる。

でも、もしかしたらそれらはすべて錯覚かもしれない。

僕たち人間が生まれたばかりのときには、言葉は獲得されていない。遺伝子に刻み込まれた天与の物として言葉が存在するわけではない。僕たちは、生まれてから、周りにいる親や兄弟の発する声を聞いて、言葉というものがあることを知る。

たとえば、「パパ」という言葉を獲得する。母親が父親のことを指差しながら「パパ」と言ったり、父親自身が「パパだよー」と繰り返し主張することで、赤ん坊は出現頻度の高い「パパ」が一つの単語であることを悟り、目の前の人物が「パパ」という言葉と深い関わりがあることを察する。試しに自分で「パパ」と声に出してみると、目の前の人物がなんらかの応答をする。どうやら、「パパ」と呼ぶとこの人物が反応するらしいことが分かり、それを繰り返していくうち、「名前」という概念を獲得する。「パパ」は目の前の人物のことを指すらしいということが分かり、「ママ」はその隣の人のことを指すらしいということが分かる。でも、その時の赤ん坊はまだ「父親」とか「母親」といった概念は理解できていないだろう。

たとえば、「おはよう」という言葉を獲得する。父親が朝起きたとき、台所に立つ母親に「おはよう」と挨拶をする。赤ん坊の目からすると、暗い世界が明るくなったときに、それまで倒れていた人が起き上がったあとに誰かに最初に出会ったとき発する言葉が「おはよう」なのだというように見える。「おはよう」と声を掛けると「おはよう」と返される。次第に、挨拶という概念を手に入れる。「おはよう」が朝に使う挨拶だと理解する時、それと同時に時間の概念も手に入れることだろう。

かようにして、言葉を持たない人間が言葉を手に入れるとき、推察が行われる。僕たちが最初に手にした言葉は、すべて「自分たちの中で推察した、意味を勝手に想像したもの」である。成長していくうち、新たな言葉は他の言葉によって説明できるようになってくる。辞書を引けば、それを説明してくれる言葉がある。しかし、その説明を理解する為に使っている言葉の大本は、すべて推察から成り立っているのだ。だから、僕たちが普段使っている言葉は、すべて「個々人の勝手な推察」が土台になっている。

個々人の勝手な推察が土台になっている以上、僕たちが何気なく使っている言葉の意味が、各人で異なっていたとしてもなんら不思議ではない。それどころか、それらの推察を元にして出来上がっている「個々人の言葉」がすべての人に同じ意味で了解されていると考える方がどうかしている。僕の「おはよう」は、あなたの「おはよう」と全く違う言葉かもしれない。

それでも、実際にはコミュニケーションがとれている、という反論があるかもしれない。たしかに、僕たちはいままでそれで、どうやら相手に正しく伝わっているようだと思えるぐらい、多くの言葉を発し、その反応を見てきている。しかし、だからといってそれは「相手に意味が伝わっている証拠」にはならない。

あなたが「おはよう」と言って「おはよう」と返す人がいるとする。その人が、「おはよう」が挨拶であると解して返答をしているのか、それとも「おはよう」と言われたらにこやかに「おはよう」と返せばどうやら殴られないらしいとだけ考えて返答をしているのか、外から区別することができるだろうか。外側の反応からだけでは、内面を理解することは困難であろう。

この「相手と意味を共有できていない可能性」は、言葉や概念の抽象度が増せば増すほど高くなる。僕は自分でも小説を書いているが、ある小説をつかまえて「これは芸術である」と表現することに抵抗がある。それは、決して芸術的な小説が存在しないという意味ではない。いたく感動して、芸術と表現したくなる作品はあるだろう。しかし、僕はその言葉をなるべく作品評価のときに使わないようにしている。「芸術」という言葉の定義があまりに曖昧で、各人によってその意味が全く違うからだ。似たように、人によって意味の違う言葉はいくつかある。僕が今までリストアップした言葉では、「(宗教的意味での)悟り」「愛」「幸福」そして「芸術」がある。きっと、もっとあるだろう。これらは、言葉として存在しながらも、実際に「相手に意味が正しく伝わらないと実感したものたち」である。

曖昧な言葉でなくても、相手に伝わっている保証はない。だから、この記事もあなたに伝わっているかどうかはわからない。それを確かめる術は原理的に存在しない。



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