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意味は形の呪縛から解き放たれることはない

カテゴリ:雑談  投稿日:2015/03/22

 なにかを書くとき、僕はほとんどの場合「誰に対しても間違いなく、誤解なく伝わること」に重きをおいている。小説でもこういったブログの文章でも、自分が伝えようとした通りに、読者に伝わることを望んで文を書く。もちろん、僕が考えた通りに伝わることばかりではないけれど、とにかく僕はそういうことを念頭において、文章を書いている。

 だから、文字が読みとりやすいことが文字のメディアにとって最も重要なことだと考えている。そしてその読みとりやすさの基準は、人によって違う。単純な例えで言えば、ゴシック体の方が読みやすい人もいれば、明朝体の方が読みやすい人もいるのである。それゆえ、電子書籍は技術的可能である限り、読者が望む体裁で表示させてほしいと思う。(この辺りの感覚は、先日の「電子書籍に救われた話」に書いた通り)

 そこで、一つ問題がある。文章は、文章そのものとして存在することができない、ということである。文章は、ほとんどの場合物理平面上に何らかの二次元的形状を持って表現されるものであり、そこには必ず「形・体裁」が関わってくる。形や体裁には印象が伴っているものであり、それが文章に味付けをしてしまう。

 たとえば、全く同じ文章をゴシック体で読んだときと明朝体で読んだときでは、印象が異なる。ゴシック体は“力強い感じ”や“ポップな感じ”、明朝体は“格式高い感じ”や“洗練された感じ”といった印象を持っている(人によって、あるいは細かな書体の違いによって、感じ方は異なるだろうけれど)。文章が形を持たざるを得ない以上、選ぶ書体によってその文章の印象が変わってしまうことは避けられない。

 ここに「執筆者の表現は、どこまで及ぶのか」という、むつかしい問題が横たわっている。今の電子書籍リーダーでは、ゴシック体と明朝体の二択で表示を切り替えるぐらいのことはできる。それは読者が読みやすいようにそう設計されているのであるが、それはもしかしたら、著者の表現をゆがめることになってしまうかもしれない。ゴシック体ではなく明朝体で読んでほしい、と著者が思っていたとき、その書籍をゴシック体で読むことは、著者の表現自体を毀損してしまいはしないだろうか?

 極端な例を挙げると、小説というジャンルの中でも、「フォント芸」と呼ばれるテクニックを利用しているものがある。かつて流行ったテキストサイトのように、一部の文字を大きくしたり、書体を変えることで視覚的印象を文章表現に利用するテクニックのことである。そこには明確に形状がもたらす印象を積極的に表現の一部として取り込む意思があり、体裁と表現が密接で不可分な関係にある。そこまでではないにしても、おおまかにゴシックで表示させたいか明朝で表示させたいかについての意思を(無自覚的にせよ)持っている著者は、多かろう。その書体の選別(ないしは選別の結果や体裁の承認)までは、「著者の意図した表現」に含まれるように感じる。

 しかしながら、著者側の意図がどうあれ、私たちの社会は、体裁は文章表現の本質に含まれ得ないものとして振る舞っているように思う。そうでなければ、青空文庫は文章表現に対する冒涜になってしまう。多くの人が青空文庫を受け入れているのは、体裁が変わったところで文章表現の本質は毀損されない、という認識が一般的なものだからだろう。

 僕は、読者としては、体裁を自由に変更できた方がありがたいと感じている(縦書きか横書きかについてさえも自由に変更させてほしいと願っているぐらいに)。しかし、同時に(巧拙はともかく)書く側の人間として、体裁に対するこだわりもある。勝手なものだと我ながら思うけれど、ともかく自分の中のその二者の利益は噛み合っていない(突き詰めると、あれもこれもどれもそれも僕の望む体裁であれ、というエゴイズムに他ならないのだが)。

 これは、紙の本しか無い時代だったら、あまり重要な問いではなかったのかもしれない。でも、今この時代において、文章に関わる人にとっては悩ましいところではないだろうか。

 ああ、言葉が物理を超えて他人に届いたなら。



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